寛保年間(1830~1844)まで島田村が滝谷山を所有していたが、度重なる洪水により山の維持が困難になり、白石村に山の権利を譲渡した。それまで白石の集落は高林にあり、養老寺と養老神社を祀って生活してきた。理由は不明だが、明応年間(1492~1501)に現在の白石の集落である字村上と京ヶ脇に別れることになった。京ヶ脇と白石に田中姓があるが、元は高林の一族ではなかったかといわれている。
白石住民の半数ほどの手次ぎ寺は大垣市上石津町打上の専想寺(せんそうじ)である。白石の住民たちは、上石津町打上から養老に居着き、藤塚姓や三輪姓を名乗り、三輪姓から分家して鈴木姓を名乗るようになった。専想寺に過去帳や証文などが残っている。昔、冬場は雪の為に専想寺から養老山を越えられなくなるので急な葬式は近くの正慶寺に法要等をお願いしていた。昭和30年頃まで盆と正月は、専想寺の住職が白石に泊まり込み、何件もお勤めをされた。専想寺もいつからか宗派が本願寺派(西本願寺)に変わってしまったので、余程のことがない限り現在は正慶寺に勤めてもらっている。
白石は水田は少ないが、滝谷の用水により20町歩は潤った。柏尾谷の谷川の筋には、字北井戸といって水田があり、牧場などもあった。多い時には一万石の収穫があったと村の文書に残っており、白石村から津屋川を往来する千石船がみえたといわれている。養老寺の白山神社からは、船の往来が見通せたので「船岡」という字名が残っている。実際に船岡から、船の到着するタイミングを見計らって、鷲巣の船着場まで下りていったことがある。
柏尾と白石の字境に唐傘松、または境松とも呼ばれる松が植えられていた。現在は石碑が建てられている。字境をめぐって論争があったと聞いたことがある。
白石村は田中イゾウと藤塚カンタロウ(いずれも漢字不明)が庄屋だった。
五日市には長池の東側に更に池があり、そこから牧田川よりに元屋敷と呼ばれた土地があった。元はその辺りに10戸数ほど住んでいたが、やがて現在の場所に移動してきた。現在の町立食肉事業センターから養老ファームの端、東洋アドバンスの辺りまでは堤防が無く、牧田川が氾濫すると、水がつきやすかったためである。
五日市の八幡神社が元は村の一番上にあったが、人が移り住むに従い、今では一番下になってしまった。
五日市は山も無く、農地も少ない部落だった。
川が氾濫して土砂が流れてくると、土石を集めて、「ボタ」と呼んでいた周囲70~80mの丘が2~3つ作られていた。ボタを作った場所の提供者は不明である。上流の方のみで作っていた。
五日市川の水利権をめぐって争ったことはない。五日市川は牧田川からの水よりも湧き水の方が多い。特に6月頃には水がたくさん湧いていた。ふれあい公園のそばに長池とよぶ池がある。
五日市の水田には牧田川と西濃用水を使っていたが、今は水田の作り手がいない。田や山からの収穫が見込めないため、比較的早い時期から会社勤めをする人が多かった。
五日市では、小学1年くらいから子供は農業に総動員された。7~8cmほどに苗が育った頃、害虫が産み付ける卵を手で取り除いた。約3日間の農繁期休暇があった。
五日市は2010年現在では47戸程ある。昭和30年代には21戸だった。3分の2は他所の土地から転居してきた。今では昔からの人は17,8戸になった。神社関連等は規約を作ってあり、五日市に来たら八幡神社の氏子になるようお願いしている。お寺に関しては自由にしてもらっているが、葬式はやはり近くが良いということで、やがては林覚寺の門徒になる人が多い。
林覚寺の南辺りに、旧牧田川の堤防である茶園原堤防があった。
上方の田んぼのあたりは河原と名前のつく小字が多い。
明徳簡易水道は昭和20年ごろに引かれ、明徳のみで使用されてきた。今も水道組合が残っている。日比建創(明徳289-5)の近くに水源がある。ほとんどすべての家で町営水道と合わせて上水道管が2本ある。下水道が完備されたのは高田に次いで町内2番目である。また、4mほど地下に水脈があるため各戸とも井戸を掘っていたが、現在はほとんど使われていない。明徳の中でA氏(明徳95)のあたりが一番高く、向かいの家は低かったため、少し雨が降ると井戸から水があふれ出ていた。
白石では渡辺氏がうどん屋を開いており水車小屋を2軒持っていた。菊水の先祖である高木賢次郎氏が菊水での発電の為に水を引いた。その後山田貞策氏が白石の耕地整理でその水路を利用して、水田に水を引いていたが水漏れがあり、機能しなくなったのではないかと考えている。
この辺りには貯め池がたくさんあり、鯉が泳いでいたのを覚えている。
水道が引かれる前は、生活用水は谷水を使用していた。洗濯物は全て村の下の方で洗っていた。風呂水などの生活排水も貯め池が作ってあり、そこへ流した。川へは排水を絶対に流さなかった。
白石では井戸を掘った詳細記録は残っておらず、慶長3年の村明細に少し記載があるのみである。