丸毛兵庫頭
丸毛兵庫頭(まるもひょうごのかみ)は明応5年(1496)に多芸の大墳城主になった。兵庫頭は秀吉に願い出て、福束城(輪之内町福束)を与えられ、領地も1万石から2万石に増えた。自分の妻・丸毛不心斎(まるもふしんさい)女房(61、62歳)を関白秀次の妾として出してい [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
多芸東部
丸毛兵庫頭(まるもひょうごのかみ)は明応5年(1496)に多芸の大墳城主になった。兵庫頭は秀吉に願い出て、福束城(輪之内町福束)を与えられ、領地も1万石から2万石に増えた。自分の妻・丸毛不心斎(まるもふしんさい)女房(61、62歳)を関白秀次の妾として出してい [...]
飯田の人で、相順寺の門徒は少ない。飯田の住民の、A家は飯田の相順寺、B家は橋爪の念長寺と直江の蓮光寺、C家は大垣市十六町の光照寺の門徒である。
飯田と飯積は、名前は似ているが、領主が異なった。「小畑川の新堤築に関する村取替証文」によると、宝永6年(1709)に水争いで多良の水行奉行、高木五郎左衛門氏が来た時は、飯積は天領、飯田は尾張藩領だった。同証文によれば、小畑川の新堤の高さは飯田側の方は2尺(約6 [...]
飯田の子は、夏は小畑川の燈明さんの所で水遊びをしていた。水深の深い所もあったが全体的に浅く、小畑川用水の圦樋の所で水を止めてプールにしていた。 飯田、飯積の用水確保のために小畑川の西側に出来たダムでも泳いで遊んだ。 飯田は上流、飯積は小畑橋の側の下流で遊ん [...]