小畑・日吉にはすでに鼓笛隊があった。半田登喜代氏が養老小学校にも鼓笛隊を作ろうとしたが、先生方から手間が掛かるので絶対にダメだと反対された。4、50万円のセットを強引に置き、教育委員会に頼んで、鼓笛隊を指導していた別の学校の先生を寄こしてもらった。
子どもたちの為になることは、身を削ってでも少し強引にやった。

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高田では昔大火事があった。古い木造家屋が残っていないのも、火事が大きな原因であると思う。
また、水害もあった。昔から住んでいる人は、徐々に高低差の高い西へと移住してきている。見た目には大して変わりがないようだが、大水が出た時、玉泉堂の辺りまで水がついたが、高田西町あたりは大丈夫だったそうである。
昔の人は良く考えたもので、高田の表通りは側溝が南北にある。水は、専念寺の本堂の南側を東西に走る側溝へ落としている。

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大正12年(1923)7月、田中義一氏を代表とする当時の高田青年団が『高田町史』という、高田出身の人物の歴史を書いた本を作った。
田中義一氏は精力的に色々な有志の会を開いていた。その位、高田にゆとりがあったのであろう。昭和の始めの頃にはもうそういった有志の会はなかった。
『高田町史』は高田としてまとめた一番古いものではないだろうか。
その本には、城前町という名称は、以前代官所があったからである、とか、喰い違い堤の話、代々の養老郡長に関してなど、色々と掲載されている。

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今の高田中学校の南に、忠魂碑と燈明が建っている。これらは、元々は現ミズノテクニクス㈱の敷地内にあった。敷地内には現在も碑が建っていた頃の、こんもりとした跡がみられる。また、昭和21年(1946)頃はこの地に岡本喜十郎の碑も建っていた。
昭和18年(1943)に、これらの石碑があった元の位置(現ミズノテクニクス㈱の敷地内)に田代神社を遷宮する話があったが、戦争が激しくなり取止めになった。代わりに当時飛行機の部品を作っていた、美津濃株式会社の養老工場が来ることになった。さらに美津濃株式会社の西側の空き地には、高田小学校の二階建て校舎が移設され、校舎不足となっていた高田中学校のために利用された。その際に忠魂碑、燈明、岡本喜十郎の碑は、現在の位置である高田中学校の南の空き地に移動された。その後美津野株式会社はミズノテクニクス㈱に変わり、岡本喜十郎の碑は、養老公園に移転された。

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戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間以上勉強をしないと駄目だと学校から言われていた。
昭和22年(1947)頃、高田中学校は、昭和18年(1943)に建てた高田小学校の一番南の校舎の一部を移動してきて、借りていたことがある。2階建の校舎を半分解体して移動させ、高田中学校の校庭に建てた。その校舎に、放送の機械室とスタジオを作った。
現在ミズノテクニクス㈱がある所に松の木があり、その中の一部を高田中学校に移植した。A氏が高田中学校の校長の時に、庭木にするので1本20万円で分けてくれという話もあったが、卒業生が植えたものなのでと、断った。松の木の管理は、剪定するお金がなく、虫もついて、大変であった。生徒に割りばしを持ってこさせて、毛虫を捕り、焼却炉で焼いた。焼却の係だった人が、毛虫の毛がついて、顔が腫れてしまったこともある。

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