高田では昔大火事があった。古い木造家屋が残っていないのも、火事が大きな原因であると思う。
また、水害もあった。昔から住んでいる人は、徐々に高低差の高い西へと移住してきている。見た目には大して変わりがないようだが、大水が出た時、玉泉堂の辺りまで水がついたが、高田西町あたりは大丈夫だったそうである。
昔の人は良く考えたもので、高田の表通りは側溝が南北にある。水は、専念寺の本堂の南側を東西に走る側溝へ落としている。

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大正12年(1923)7月、田中義一氏を代表とする当時の高田青年団が『高田町史』という、高田出身の人物の歴史を書いた本を作った。
田中義一氏は精力的に色々な有志の会を開いていた。その位、高田にゆとりがあったのであろう。昭和の始めの頃にはもうそういった有志の会はなかった。
『高田町史』は高田としてまとめた一番古いものではないだろうか。
その本には、城前町という名称は、以前代官所があったからである、とか、喰い違い堤の話、代々の養老郡長に関してなど、色々と掲載されている。

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今の高田中学校の南に、忠魂碑と燈明が建っている。これらは、元々は現ミズノテクニクス㈱の敷地内にあった。敷地内には現在も碑が建っていた頃の、こんもりとした跡がみられる。また、昭和21年(1946)頃はこの地に岡本喜十郎の碑も建っていた。
昭和18年(1943)に、これらの石碑があった元の位置(現ミズノテクニクス㈱の敷地内)に田代神社を遷宮する話があったが、戦争が激しくなり取止めになった。代わりに当時飛行機の部品を作っていた、美津濃株式会社の養老工場が来ることになった。さらに美津濃株式会社の西側の空き地には、高田小学校の二階建て校舎が移設され、校舎不足となっていた高田中学校のために利用された。その際に忠魂碑、燈明、岡本喜十郎の碑は、現在の位置である高田中学校の南の空き地に移動された。その後美津野株式会社はミズノテクニクス㈱に変わり、岡本喜十郎の碑は、養老公園に移転された。

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戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間以上勉強をしないと駄目だと学校から言われていた。
昭和22年(1947)頃、高田中学校は、昭和18年(1943)に建てた高田小学校の一番南の校舎の一部を移動してきて、借りていたことがある。2階建の校舎を半分解体して移動させ、高田中学校の校庭に建てた。その校舎に、放送の機械室とスタジオを作った。
現在ミズノテクニクス㈱がある所に松の木があり、その中の一部を高田中学校に移植した。A氏が高田中学校の校長の時に、庭木にするので1本20万円で分けてくれという話もあったが、卒業生が植えたものなのでと、断った。松の木の管理は、剪定するお金がなく、虫もついて、大変であった。生徒に割りばしを持ってこさせて、毛虫を捕り、焼却炉で焼いた。焼却の係だった人が、毛虫の毛がついて、顔が腫れてしまったこともある。

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A氏が子どもの頃、昭和の初め頃は、高田祭の車山(やま)を全部ばらして保管していた。
車山蔵が出来てからは、飾り物だけ外して、本体はそのまま保管した。
常盤(ときわ)町の車山で子ども歌舞伎が上演されていたこともある。戦争が激しくなったら、車山を出さなくなり、戦後は子どもがいなくなった。
A氏は小さい時から車山を観たり、車山に乗ったりしていた。学校から帰って、車山が出ているのを見ると胸が躍った。その頃子どもだった人たちも皆亡くなってしまい、車山がどのように飾られ、お囃子はどのようなもので、本来は子ども歌舞伎が上演されていたということも、すべて忘れ去られようとしている。何故お金を出してまで車山を出さなければならないのか、出すにしてもただ飾っておくだけで良いのではないかという意見もあった。生え抜きの人間をつかまえては説教をして、何とか費用を捻出した。
お囃子は、昭和の初めの頃は景陽寺の本堂でやっていた。大太鼓、小太鼓、笛など、若い衆によって担当が決まっていて、子どもは板の間に座って見ていた。小学生には触らせてもくれなかった。昔は、バチの持ち方や上げ方、道具の扱い、演奏する時の態度など、こと細かに指導されて煩かった。今は、若い衆もおらず、笛や太鼓の基礎すら出来ていないので、ただ鳴っているだけで、情けない状態である。伝統は残さなければならないが、今同じように指導すると皆やりたがらなくなるだろう。

西町車山の木彫が昭和31年(1956)に岐阜県指定文化財として登録され、養老町内の県指定文化財としては最初の登録となった。西町の中村準一氏が高田祭りの車山を文化財に指定する為に奮闘され、その後昭和55年(1980)に高田祭曳車山3輛がまとまって県指定文化財に登録された。常磐町の車山は文化財登録には全く無関係であった。

 

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