戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間以上勉強をしないと駄目だと学校から言われていた。
昭和22年(1947)頃、高田中学校は、昭和18年(1943)に建てた高田小学校の一番南の校舎の一部を移動してきて、借りていたことがある。2階建の校舎を半分解体して移動させ、高田中学校の校庭に建てた。その校舎に、放送の機械室とスタジオを作った。
現在ミズノテクニクス㈱がある所に松の木があり、その中の一部を高田中学校に移植した。A氏が高田中学校の校長の時に、庭木にするので1本20万円で分けてくれという話もあったが、卒業生が植えたものなのでと、断った。松の木の管理は、剪定するお金がなく、虫もついて、大変であった。生徒に割りばしを持ってこさせて、毛虫を捕り、焼却炉で焼いた。焼却の係だった人が、毛虫の毛がついて、顔が腫れてしまったこともある。

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表示位置は高田中学校を示している。