A氏が子どもの頃、昭和の初め頃は、高田祭の車山(やま)を全部ばらして保管していた。
車山蔵が出来てからは、飾り物だけ外して、本体はそのまま保管した。
常盤(ときわ)町の車山で子ども歌舞伎が上演されていたこともある。戦争が激しくなったら、車山を出さなくなり、戦後は子どもがいなくなった。
A氏は小さい時から車山を観たり、車山に乗ったりしていた。学校から帰って、車山が出ているのを見ると胸が躍った。その頃子どもだった人たちも皆亡くなってしまい、車山がどのように飾られ、お囃子はどのようなもので、本来は子ども歌舞伎が上演されていたということも、すべて忘れ去られようとしている。何故お金を出してまで車山を出さなければならないのか、出すにしてもただ飾っておくだけで良いのではないかという意見もあった。生え抜きの人間をつかまえては説教をして、何とか費用を捻出した。
お囃子は、昭和の初めの頃は景陽寺の本堂でやっていた。大太鼓、小太鼓、笛など、若い衆によって担当が決まっていて、子どもは板の間に座って見ていた。小学生には触らせてもくれなかった。昔は、バチの持ち方や上げ方、道具の扱い、演奏する時の態度など、こと細かに指導されて煩かった。今は、若い衆もおらず、笛や太鼓の基礎すら出来ていないので、ただ鳴っているだけで、情けない状態である。伝統は残さなければならないが、今同じように指導すると皆やりたがらなくなるだろう。

西町車山の木彫が昭和31年(1956)に岐阜県指定文化財として登録され、養老町内の県指定文化財としては最初の登録となった。西町の中村準一氏が高田祭りの車山を文化財に指定する為に奮闘され、その後昭和55年(1980)に高田祭曳車山3輛がまとまって県指定文化財に登録された。常磐町の車山は文化財登録には全く無関係であった。

 

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表示位置は高田東町の車山蔵を示している。