景陽寺(養老町高田215-2)は、親鸞を開祖とする浄土真宗の真宗大谷派の寺院である。昭和29年(1954)に発行された「たか田」に掲載されている景陽寺の沿革によると、開基は天文8年(1539)、釈了知(しゃく りょうち)による。釈了知は三河の国堤(つつみ)村の出身と伝えられ、元の名を松山源左エ門といった。
源左エ門が僧となって京都の本山に向かう際に高田に立ち寄って草庵を結んだのが天文8年(1539)である。京都では数年滞在した後に再び高田に戻り、天文14年(1545)に寺を創建した。慶安4年(1651)に景陽寺と名乗るようになり、同じ年に木像の御本尊がご下賜された。御本尊に付随する裏書きが残されており、その裏書きに宣如上人(せんにょしょうにん)の名と花押があった。景陽寺を名乗るまでは「了知さんのお寺」と呼ばれていたと伝えられている。景陽寺には過去帳が残っており、開基当初の門徒まで遡ることができる。
御本尊の裏書きには「濃州多芸郡高田町」と記されており、この内容は高田の成り立ちを考える上で重要な資料になると考えている。
天文8年(1539)は一向一揆に見られるように浄土真宗が隆盛を誇ったころである。その後天台宗の延暦寺が焼かれるなど織田信長によって中世的な寺院の権威が破壊された。さらに江戸時代に入って寺請制度ができるなど、寺院を取り巻く環境は大きく変化していった。景陽寺だけでなく、養老町内の古い寺の転派はこの辺りの時代にいわれのあるものが多い。景陽寺はこういった歴史の流れに沿ったひとつの典型的なパターンではないかと思う。
景陽寺の本堂は元禄5年(1692)に建立されたと伝わっている。
本堂は山科本願寺の別院と同じ形式である。中央間口3間を「内陣」、左脇間口2間を「余間(よま)」とし、向かって右の室は住職が人と接見などをした間であったと想像できる。敷居もあり、襖があったかもしれない。
また禅宗などの本堂には段差を設けていないが、真宗寺院では内陣が上壇になっている。
本堂は明治期創建の特徴である丸柱ではなく、江戸期の特徴である角柱になっている。
本堂の裏手に書院は無く、庫裏については明治~大正期に近くの庄屋の建物を移築してきたといわれている。
景陽寺の門徒には昔からの有力者の家が多い。
元禄期に建てられた景陽寺山門のすぐ前に大黒屋という高田の旧家がある。景陽寺は寛政6年(1794)、文化11年(1814)など、何回かあった高田の大火事では一度も燃えてはいないが、山門の修理をしたときに山門の表側から焦げ跡が見つかった。江戸後期の、大黒屋の大火の出火状況を示すものではないだろうか。大黒屋から上手には山門で焼き止まり、下手の方に火が広がっていった。この際も本堂の方が大火に遭ったという記録はない。
洪鐘(おおがね)は正徳3年(1713)3月8日に鋳造したものといわれている。
慶応3年(1867)に、景陽寺住職松山恵勝の相続願いが出ているが、長男恵林が病弱のため、二男恵山を相続人としたい旨の申し出であった。願い出には、組合総代の浄蓮寺住職や門徒総代が名を連ねている。
明治32年(1899)に恵林が亡くなり、それが松山家としては最後の代となった。
明治35年(1902)に高橋家が海津町土倉(現海津市平田町土倉)から養老町高田へ来て景陽寺を継いだ。その後名字の高橋を山号として高橋山景陽寺とした。2012年現在のご住職で、高橋姓に変わってから4代目となる。
景陽寺には、中町、東町を中心にして、元町にも門徒が多い。輪之内町福束にも門徒がいた。
門徒の戸籍である寺送り文書の記録は残っておらず、過去帳のみが残されている。門徒の移動や転出はどのように行われていたのか現在では分からない。
景陽寺では年行司はおらず、世話方を依頼している。報恩講は昔は10月に行っていたが、その時期ではお華束(おけぞく)にカビが生じるので日にちを12月の5~8日に変更した。現在は一日減らして12月の6~8日にかけて行っている。
「コウヨウ」を山号としていたという史料は確認できていない。
表示位置は景陽寺 を示している。