江戸時代からの氏子の戸数は分家が多いため増えている。熊野神社で10月の祭礼時に3台の車山の前で、戸数分の提灯を灯していた。数十年前は103戸だったが、2010年現在は約250戸数ほどに増えた。
車山の虫干しを正海寺の本堂で行っていたが、車山蔵が出来てからは正海寺の本堂は使われなくなった。
井畑瀬古では、年行司の係と村の長男で構成される青年団と協力して準備が進められる。
井畑の車山は室原の3台の車山の中では一番古い。
車山の舞台で1人が笛を吹くが、笛を吹く者は長男のみである。現在村の長男は5人であるが、仕事等でなかなか笛の練習ができない。また、車山を引く時は村の人々が30人くらい出て皆で村の中を回り、最終的に熊野神社本社前に引き揃える。
現在、青年団の中で決めた2人が代表で袴姿になり、お神酒を車山と一緒に奉納するが、30~40年前は祭に関係ある人は皆が紋付袴姿だった。今は祭りの仕来りなどが大きく様変わりしている。
本楽の翌日は後宴(ごえん)と言い、夜7:30頃から車山に提灯を灯し燈明大神宮の前で1時間ぐらい笛・太鼓の神事を行った後、車山蔵に帰って後宴が終わる。
色目瀬古では、年行司は一年で交代する。年行司の役目は祭りの他にも車山やその他道具の虫干し、提灯の修理等、維持管理がある。
瀬古ごとの担当は、大当番が3年に1度回ってくる。平成22年は東瀬古が大当番にあたる。祭りの3組顔合わせなどでは大当番が挨拶をして回り、神社に先導して行く。また、大当番は熊野神社と各組との連絡役も果たす。
各戸で年間5~6千円の祭りの費用を負担する。
宿制について、昨今は家を提供するのが難しい等の意見が有る。
室原は全体で320戸あり、色目・井畑・東に分かれる。色目には110戸あり、その中から8人の年行司を持ちまわりで務める。十数年に一度のお役目なので全てを把握するのが難しく、年行司の上に全体の管理役を置いてはどうかという意見も出ている。
1808年の泥川堤防築堤時に大豆を植え、その収益と各戸の協力金を元に五穀豊穣と安全を祈念して車山を購入した。昭和62年8月~平成2年10月、町からの補助も含めて3千万円かけて、蔵も車山も全てを修繕した。
曳き揃えの時のお囃子は大太鼓、小太鼓、横笛で4~5曲演奏する。演奏は色目の高校生~25才までの男子が務める。ふれあい広場の集会所で練習する。登録上は30人ほどいるが、実際に練習に来られるのは半分ほどしかいない。昔は長男・社会人のみだったが、最近は高校生も参加できるようにした。
昭和29年の町村合併のお祝いで子ども歌舞伎を行った。色目だけではなく、室原全体の小学5、6年生が演じた。演目は「義経千本桜」。衣装、鬘、化粧など本格的に揃えるため費用がかかり、一戸あたり5万円近くを負担した。
昭和12~20年には、色恋ものなど、歌舞伎の題材的に上演できないものもあった。
450年位前に福源寺からの火で熊野神社まで延焼した。その際に棟札も焼失してしまった。
熊野神社の宮寺であった智善院の仏像が現在は福源寺に保管されている。
東向瀬古では、祭りの一週間前から集会所で練習が始まる。高校1年~30歳までの長男のみが参加する。4月、9月にも住吉神社で小祭りを行う。
(室原全体で行う)子ども歌舞伎は、平成7年まで節目ごとに行っていた。指導者は大垣(名古屋という方もあり)からきてもらう。7~9月で練習をした。
瀬古青年団で車山の管理をし、年行司で祭りの管理をする。
祭りについて、 詳細は「熊野神社例大祭 ご案内」参照。
百八提灯放散では、熊野神社境内に108張の提灯を吊るし、参拝客が持って(昔は取り合いをして)帰る。
泥川堤防の空き地に豆を植え、それを原資にして頼母子をしたり寄付金を仰いだりして車山を作った。
室原では頼母子講を戦後、昭和30年くらいまで行っていた。胴元は不明だが地主は関係していない。組合員は小作階級が多く、これによって村民の横の繋がりが強固になった。
大垣市上石津町の一之瀬にも車山があり、多良街道を通って祭りの手伝いに行っていた。文楽も一之瀬や牧田と交流があった。上石津から室原に移ってきた人も多くいる。近隣地域の車山が出る祭りには、室原から人夫として大垣や米原などに現在でも手伝いに行っている。
室原から高田の常磐町の車山へも手伝いに行った。

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室原の熊野神社は昭和27年(1952)の宗教法人への申請書類には応永年間(1394-1427)の創建と書かれていた。
津島神社から牛頭天王(ごずてんのう)を分社し、その100年程後に疫病の神様である牛頭天王より幅広い神様として熊野権現を勧請した。熊野権現を勧請した頃の室原の中心人物は庄屋の鈴木治左衛門氏であったが、熊野神社に庄屋がどう関わったかという資料は全くない。
8月1日に牛頭天王の祭りである天王祭を行う。竹ざおに提灯をつけ、車山の打ち囃子を拝殿の前で筵(むしろ)をひいて1~1.5時間演奏する。笛太鼓も上り車山(のぼりやま)、送られ車山(おくられやま)等の曲がある。15年ほど前まで行われていた。
室原の熊野神社内に天台宗智善院という寺院があったが、明治6年(1873)に、廃仏毀釈により智善院が取り壊された。千手観音像、阿弥陀如来像など多数あり、現在は福源寺にて保管されている。
知善院は寺子屋としても使われていた。
御鍬神社は、綾野渡しの西側の字一本杉に位置していたが、現在は熊野神社に合祀されている。御鍬神社があった場所に石が置かれて住民がお参りしていたが、その石も熊野神社の横に運ばれて安置されている。その他の社はもともと熊野神社にあった。
室原の熊野神社の祭りは、旧暦8月、9月20日、10月5日、10月の第1土日と移り変わってきた。
室原は3つに瀬古割(せこわり)されており、色目(いろめ)・井畑(いばた)・東向(ひがしむき)に各総代や世話方がいる。現在は隣保班(りんぽはん)10班から1名ずつ総代を出し、その他に各瀬古からの総代が3名、総数13名で4年交代である。
江戸時代室原は天領の為、牧田地区から多良街道から領地を越えて他国の武士や領主が密かに侵入してこないように見張った。
天領では年貢が安く、年数がたって金がたまった頃になると、徳川幕府が散財させるために村が車山を作り、祭典を催すことを許した。
昔は豊年や祝い事がある年のみ車山の曳き出しや子供歌舞伎を行った。戦時中は子供歌舞伎は自粛されていた。祭の詳細は9月20日頃に決定され10日ほどかけて準備を行った。年行司の家で子供歌舞伎の練習が行われ、師匠を長浜の江州から招いて小学校3年~6年生の子供たちが歌舞伎の振り付けや、口上を習った。車山が出ない年でも神事のみは行われた。
最初に垂井町の車山を買ったため、室原の車山は今でも長浜型である。
室原の熊野神社では4月、9月にも小祭りを行う。

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蓮沢寺(れんたくじ)の前身は、上段海(かみだんがい)から水を避けて色目村へ移った人々が、安福(やすふく)氏一族のための安福(あんぷく)寺には参れず、文明11年(1480)蓮如上人の名号「南無阿弥陀仏」をもって色目村道場を開いたことが始まりである。
現住職(平成22年)の5代前の先祖が鷲巣から入寺した。蓮沢寺が鷲巣で所有していた田地田畑の権利はそのまま保有し、年貢を寺の収入とした。
文政年間(1818~1830)に本堂再建の積み立てをしたが、当時の住職が志半ばで亡くなった。その後、お庫裏が安政3年(1857)に滋賀県から大工を呼び、七間四面の立派な本堂を建てた。七間四面の本堂とは真宗御堂の本流である。その後、現在の位置に移転した際に一尺小さい六間五尺の本堂にした。地盤が固いため、濃尾震災でも倒壊はなかった。本堂の余った材料で室原の色目地区に元からあった小さな車山を作り直した。
江戸時代から比べると、門徒の戸数は分家が増えた分多くなった。角田(すまだ)と杉本は全て蓮沢寺の門徒であり、場所は色目にあるものの、実質日吉の住民の寺であるというほど、蓮沢寺と日吉の関係は深い。
蓮沢寺の報恩講では親鸞聖人の好物である里芋のっぺ汁を作って飲み食いをした。よその村ではやらないが、9月20日頃から12月頃までかけて各家で御取越を勤め、住職は各家を周りお勤めをされた。
今でも、室原に嫁ぐとその年の報恩講に母親に伴われた若嫁さんが和服を着て手次ぎ寺へ御参りする。
棟札によれば寛政10年(1798)に蓮沢寺境内に大神宮が建立された。

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長願寺では、法事よりも重要な行事として、御取越(おとりこし)が勤められ、大半の門徒がお参りされる。70年近く前は、門徒のうちの一軒に村中の人が集まった。30人規模の集まりで、のっぺ汁と番茶で米を砥いで番茶の葉を混ぜて炊く茶飯をふるまった。
長願寺境内に冨長蝶如氏の米寿を記念した石碑が建てられている。
長願寺門徒の先祖が石山合戦に参加していたのではないかと考えている。

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正海寺境内にある石碑、「正海寺のあらまし」によると、当初、天台宗福寿海院(ふくじゅかいいん)として開基し、栗原山九十九坊の内の一寺であったが、寛永6年(1629)に貫主の定龍(じょうりゅう)が浄土真宗大谷派の教如上人に帰依し、金龍山正海寺として開基した。安政6年(1859)の宗門改帳には金龍山寶珠院(こんりゅうざん ほうじゅいん)と記されている。
善光寺の御本尊と同じ三尊仏の御影を本尊として安置していて、善光寺と合わせて7年に一度開帳される。
明治24年(1891)の濃尾地震の時に本堂が崩れ、明治の終わりから大正にかけて本堂を再建し今に至る。
正海寺には安政6年(1859)の宗門送り状、明治5年の過去帳が保管されている。そのほかの古文書類は散逸してしまった。
現在は、報恩講と十三日講を執り行っている。
住職の子供時代、1940年頃には、門徒の中で文楽に関わっている人がいたので報恩講のお勤めの後、本堂で文楽を行った。
正海寺の門徒には高木姓が多い。

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