蓮沢寺(れんたくじ)の前身は、上段海(かみだんがい)から水を避けて色目村へ移った人々が、安福(やすふく)氏一族のための安福(あんぷく)寺には参れず、文明11年(1480)蓮如上人の名号「南無阿弥陀仏」をもって色目村道場を開いたことが始まりである。
現住職(平成22年)の5代前の先祖が鷲巣から入寺した。蓮沢寺が鷲巣で所有していた田地田畑の権利はそのまま保有し、年貢を寺の収入とした。
文政年間(1818~1830)に本堂再建の積み立てをしたが、当時の住職が志半ばで亡くなった。その後、お庫裏が安政3年(1857)に滋賀県から大工を呼び、七間四面の立派な本堂を建てた。七間四面の本堂とは真宗御堂の本流である。その後、現在の位置に移転した際に一尺小さい六間五尺の本堂にした。地盤が固いため、濃尾震災でも倒壊はなかった。本堂の余った材料で室原の色目地区に元からあった小さな車山を作り直した。
江戸時代から比べると、門徒の戸数は分家が増えた分多くなった。角田(すまだ)と杉本は全て蓮沢寺の門徒であり、場所は色目にあるものの、実質日吉の住民の寺であるというほど、蓮沢寺と日吉の関係は深い。
蓮沢寺の報恩講では親鸞聖人の好物である里芋のっぺ汁を作って飲み食いをした。よその村ではやらないが、9月20日頃から12月頃までかけて各家で御取越を勤め、住職は各家を周りお勤めをされた。
今でも、室原に嫁ぐとその年の報恩講に母親に伴われた若嫁さんが和服を着て手次ぎ寺へ御参りする。
棟札によれば寛政10年(1798)に蓮沢寺境内に大神宮が建立された。
一間=六尺=約1.8m
寺が田地田畑を所有していた、という点に疑問が残る。
七間四面の本堂とは真宗御堂の本流である。
表示位置は蓮沢寺を示している。