正海寺境内にある石碑、「正海寺のあらまし」によると、当初、天台宗福寿海院(ふくじゅかいいん)として開基し、栗原山九十九坊の内の一寺であったが、寛永6年(1629)に貫主の定龍(じょうりゅう)が浄土真宗大谷派の教如上人に帰依し、金龍山正海寺として開基した。安政6年(1859)の宗門改帳には金龍山寶珠院(こんりゅうざん ほうじゅいん)と記されている。
善光寺の御本尊と同じ三尊仏の御影を本尊として安置していて、善光寺と合わせて7年に一度開帳される。
明治24年(1891)の濃尾地震の時に本堂が崩れ、明治の終わりから大正にかけて本堂を再建し今に至る。
正海寺には安政6年(1859)の宗門送り状、明治5年の過去帳が保管されている。そのほかの古文書類は散逸してしまった。
現在は、報恩講と十三日講を執り行っている。
住職の子供時代、1940年頃には、門徒の中で文楽に関わっている人がいたので報恩講のお勤めの後、本堂で文楽を行った。
正海寺の門徒には高木姓が多い。
表示位置は正海寺を示している。