泥(どろ)川の堤防が低く、伊勢湾台風による逆水で小栗栖神社の御神体が垂井町表佐に流された時には御神体を探しに行った。
昭和の始め頃から泥川の堤防の石段を少しづつ高くしていった。皿魚籠(さらびく)に土をのせて堤防の横に足場を作り、モッコで土を運んだ。女、子供は千本突きをして固めた。
泥川から水が出たら色目の水防小屋から監視をする。土地の高さから東向(ひがしむき)、井畑(いばた)、色目(いろめ)の順で水がつく。茶園原(ちゃえんばら)の除(よげ)の高さで水をいったん止めて、水害の危険がある地域に住む人から順に避難した。水が出てから東向に水が到達するまで30分はもつようになっていた。
明治29年(1896)に泥川堤防が3回切れている。
伊勢湾台風の時の泥川堤防で、養老橋から200m西、字住吉の辺りから大垣市大野十六町にかけて7箇所で水が吹いたことがある。水がきれいだったので川底からでているのではないかと思われた。8mの矢板を切って大野まで堤防の側に置き、矢板を打っても水が出た。掘ってみたら縦横2m位にガラが敷き詰められており、ガラを通ってきれいになった水が流れてきていたことが判明した。
大垣市十六町大野の水防庫の東辺りは、水がつきやすかったため堤防を少し高くしており、室原側の堤防決壊の危険性が高まった。

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表示位置は色目の水防小屋を示している。