祐泉寺の開基は大永4年(1524)である。
祐泉寺では、正徳4年(1714)以降の過去帳が保管されている。帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の脇掛があるが、蓮如上人の字体に似ており、表装されているため裏書が分からないがかなり古いものではないかと思う。
過去帳にメモ書きのような形でいつの時代かは不明であるが、洪水の記録等が記されていた。13代住職の賢誠(けんじょう)氏は説教の旅の途中に佐竹直太郎氏を郡上から養子として養老町に連れてきた。
佐竹直太郎氏は祐泉寺の有力門徒であり、明治34年(1901)の再建の折には寄附をしている。
祐泉寺の相焼香(あいじょうこう)は京ヶ脇の法音寺(京ヶ脇1422)である。祐泉寺は天台宗から浄土真宗へ改宗したが、年代は不明である。平成3年に現住職(平成22年)に代替わりした。祐泉寺の開基は大永4年(1524)であるが、法名軸をみると家系としては1332年から続いており現在16代目となる。門徒は35~36軒程である。
夏休みの7月中は蛇持の公民館、8月は祐泉寺でお経教室を行う。報恩講は11月第3土・日に行われる。現在、報恩講に子供は参加していない。祐泉寺の行事としては他に、永代経・正月の修正会(しゅしょうえ)・同朋会という勉強会などが行われている。
小畑地区全体では昭和37、8年(1962,1963)頃、土地改良に合わせて各地区に新しく排水機能を充分に持った排水機が設置された。色目川排水機、江月排水機、祖父江排水機等である。
江月の治水工事の際には地主が工事人夫のために米の炊き出しをした。その時に使った釜がある。
徳川時代の江月輪中は河床の上がった川に囲まれており、他の村を通って下流に流さないと水が落とせなかった。そのため江月伏越樋管をつくり、江月→牧田川の下→烏江→金草川の下→栗笠→大野→伊尾川(現揖斐川)へと水を流した。江月と大野の高低差は約3mである。烏江、栗笠、大野の庄屋は江月の庄屋との話し合いにより、それぞれの地内に樋管を引くことを許した。2つの川を伏越す(川底に筒を通す)工事は百姓の自費によった。また、江月の庄屋はこの工事で私財を全て費やした。この工事に関する史料は養老町史にある。
大野が水を落としてから栗笠、それから烏江、最後に江月という順番に排水を行っていたため、江月が水を落とせる頃には稲が全て腐ってしまうようなことが3年に1度はあった。
江月伏越樋管(えつきふせこしひかん)は小畑川の川敷きから牧田川の川底を通って烏江に水を落とす仕組みになっており、厚さ10cm~12cmの松の板を木枠に使ってトンネルにした。現在でも牧田川の下には工事の名残として伏越樋の木枠が残っている。堤防等水位の高低差のある所へはサイホンで水を流した。水を汲み上げるのに、大正の頃(1912-1926)はポンプを蒸気機関で動かそうとしたが、うまくいかず爆発してしまった。それによって村は莫大な借金を背負ったが、当時の江月の数名の地主が頭割りで払った。大正末期に電気でポンプを動かそうとしたが、モーターの出力が足りなかった。馬力を上げようとしたが、費用が集まらず苦労した。
天明5年(1785)に牧田川の江月伏越樋管の工事に着手した。江月では用水は小畑川から取っていた。大垣側が杭瀬川の利権を持っており、用水が必要な時期になると大垣側に水を落としてしまうので水位が下がり、江月では杭瀬川から用水を取ることはできなかった。
楽邦寺の現住職(平成22年)は昭和52年(1977)に兵庫県から祖父江に移住した。祖父江の公民館が出来る前までは年中行事の寄り合いの場として楽邦寺本堂が使われていた。子供会の行事や人形劇(腹話術)には世代間のつながりを意識して、積極的に関わるようにしている。誕生会や、4月から翌年の3月までに生まれた子供を招く初参り会(はつまいりかい)を催している。20歳から40歳までと、40歳以上の2つの集いがあったが、最近なくなってしまった。デイサービスに住職が毎月訪問し、腹話術説法を行い定着している。月一回楽邦寺通信を発行していたが、近年はペースが落ちている。