江月の治水工事の際には地主が工事人夫のために米の炊き出しをした。その時に使った釜がある。
徳川時代の江月輪中は河床の上がった川に囲まれており、他の村を通って下流に流さないと水が落とせなかった。そのため江月伏越樋管をつくり、江月→牧田川の下→烏江→金草川の下→栗笠→大野→伊尾川(現揖斐川)へと水を流した。江月と大野の高低差は約3mである。烏江、栗笠、大野の庄屋は江月の庄屋との話し合いにより、それぞれの地内に樋管を引くことを許した。2つの川を伏越す(川底に筒を通す)工事は百姓の自費によった。また、江月の庄屋はこの工事で私財を全て費やした。この工事に関する史料は養老町史にある。
大野が水を落としてから栗笠、それから烏江、最後に江月という順番に排水を行っていたため、江月が水を落とせる頃には稲が全て腐ってしまうようなことが3年に1度はあった。

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「大野から~江月という順番」について: 水を落とした後は、上流の村が水を落としても田に水が入らないように堰き止めていた。 表示位置はサイフォンにより落水した場所を示している。