牧田川の改修後は小畑川の水位が下がったため、飯積・江月・祖父江地区の農業従事者が用水確保のため、建設省に要請して飯積字小物成(こものなり)に小畑ダムを作った。小畑ダムで水位を80cm上げると、祖父江字小物成地区の田が水没したり、小畑川自体の水位が最大2m上がるなどの弊害が出た。小畑川ダムによる水位の上昇のため、逆水が県道大垣-養老公園線を越流して飯田まで入り込むことがあった。昭和30年代に水位を調整できるダムに変わったことで、問題は解決された。
飯積に昭和12年(1936)に築造された小畑川ダムがあり、小畑川の水を祖父江、江月、飯積、飯田に水田の用水として取り入れている。
小畑川のダムの下流の方で土地改良の時に古い土管が出てきた。土管がどこの水路につながっていたのかは不明である。

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小畑川両岸の堤防は、向野神社の鎮座する飯積輪中の堤防と、飯田の堤防の高さを比べると、飯積輪中の方が天領である為30cm(一尺)高くなっている。
飯積、金屋、直江の三箇村の悪水を杭瀬川に落水するための小畑川伏越樋管が農業高校(現大垣養老高校、祖父江向野1418-4)の牛小屋の東側にあった。
小畑川は江月橋付近から牧田川に合流していた。小畑川から牧田川を通って、大野の船大工まで船を取りに行っていた。小畑川に長良川の鵜飼いが来たこともある。鵜飼の冬期の餌飼(えがい)の為である。
小畑川には鮎がたくさんいた。小畑川の水はきれいだったため魚新に魚を持っていくと高く買ってもらえた。
飯田では、小畑川の水により部落内の水路の浄化をはかり、また用水として利用した。昔、小畑川はきれいな青色をしていたが、夏でも水が冷たく心臓まひを起こすため泳いではいけないと言われていた場所もある。
小畑川は川の流れがかなり湾曲して牧田川と合流していたため、改修工事により牧田川と分流させ杭瀬川へ合流させた。

昭和初期、度重なる水害のため飯田の人も牧田川の改修に出たという話は聞いたことがあるが、牧田川の北を流れる小畑川から飯田へ水がついたとか、小畑川を改修しに行ったという話は聞いたことがない。
江戸時代に小畑川堤防を作る時に土を上げたので、小畑川沿いには池がたくさんある。
昭和の初め頃までは、小畑川に船を浮かべて、風流に芸者をあげて川舟で酒を飲んだ。
明治の初め頃までは、桑名から小畑川にある燈明まで船運(しゅううん)があった。
小畑川は、昔は水量も多く鮒だけではなく鮎も上がって来ていた。飯積の村にもハリンコがいた。
小畑川の下流、江月のあたりに長良川から鵜飼船が来ていた。
飯田の村中に用水が流れていて、そこにうなぎがいたそうである。

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祖父江、大坪、飯田でそれぞれ弥生時代の遺物が出ている。
このあたりはまた交通の要所でもあった。古代より濃尾平野の玄関口と位置づけられる。
1400年頃には美濃の中道として栄え、1700年頃には美濃三湊が発展した土地でもある。

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祖父江の庄屋川瀬彦兵衛は牧田川沿いに堤防を作り、自分の土地と百姓を守るため祖父江の飛地として現大垣養老高校辺りの字向野を確保することに執着した。各輪中の庄屋も同様にここの土地を重視し、取り合いになった。
笠松代官所の文書によると川瀬彦兵衛は幕末の頃に堤防取締役となっている。この役名は彦兵衛にしかついていない。
元禄6年(1693)に祖父江輪中が完成した後、宝永年代(1704~1711)の頃には排水に困るようになった。祖父江村では庄屋川瀬彦兵衛が中心となって、杭瀬川を伏越して、大垣輪中へと悪水を落とす計画が成された。悪水路の、長さ1000間(約1,8km)に及ぶ大工事の為に、時の庄屋川瀬彦兵衛は私財全てを費やしたが工事は失敗した。後に住民の自普請により完成したが土地は全て借金の利息に費やした。この伏越し樋管は大正13年まで利用されていたが、百姓、地主共々昭和の時代まで排水に関しては難儀をした。
川瀬彦兵衛の分家、川瀬重兵衛は目印に日の丸をあげ、祖父江湊を通る舟に対し通行料を取っていた。川にロープを2本張り、舟が通行料を払うとロープを上げて通す仕組みになっていた。
祖父江は家康に直接指名された家が庄屋に就き、以後260年続いた。川瀬重兵衛の墓は、重兵衛が飯積の川瀬彦兵衛の姻戚関係であることから飯積の共同墓地にある。
関ヶ原合戦(1600)以降は江戸幕府が分断政策を取り、美濃の地域を細かく分けて統治した。江月、烏江、船附は尾張藩だったため、それらの地域の目付役として祖父江を徳川幕府直轄の天領とし、川瀬彦兵衛を祖父江の庄屋とした。祖父江は舟運の要所であると同時に物と情報が集まる所として重視された。川湊があり、江戸幕府から杭瀬川の通行権を得ていたので経済的に潤っていた。

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前田慶次郎が慶長10年(1605)頃、一時期祖父江に住んでいたという伝承がある。関ヶ原合戦後家康の残党狩りを逃れて慶次郎が上杉家に仕えるため関東に行く途中、島左近の娘であるみつとの子、吉兵衛を祖父江の庄屋川瀬彦兵衛に預けた。川瀬彦兵衛は島左近の領地、近江の川瀬村の出身である。みつと慶次郎は京都で会ったのではないかという伝承がある。

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