祖父江の庄屋川瀬彦兵衛は牧田川沿いに堤防を作り、自分の土地と百姓を守るため祖父江の飛地として現大垣養老高校辺りの字向野を確保することに執着した。各輪中の庄屋も同様にここの土地を重視し、取り合いになった。
笠松代官所の文書によると川瀬彦兵衛は幕末の頃に堤防取締役となっている。この役名は彦兵衛にしかついていない。
元禄6年(1693)に祖父江輪中が完成した後、宝永年代(1704~1711)の頃には排水に困るようになった。祖父江村では庄屋川瀬彦兵衛が中心となって、杭瀬川を伏越して、大垣輪中へと悪水を落とす計画が成された。悪水路の、長さ1000間(約1,8km)に及ぶ大工事の為に、時の庄屋川瀬彦兵衛は私財全てを費やしたが工事は失敗した。後に住民の自普請により完成したが土地は全て借金の利息に費やした。この伏越し樋管は大正13年まで利用されていたが、百姓、地主共々昭和の時代まで排水に関しては難儀をした。
川瀬彦兵衛の分家、川瀬重兵衛は目印に日の丸をあげ、祖父江湊を通る舟に対し通行料を取っていた。川にロープを2本張り、舟が通行料を払うとロープを上げて通す仕組みになっていた。
祖父江は家康に直接指名された家が庄屋に就き、以後260年続いた。川瀬重兵衛の墓は、重兵衛が飯積の川瀬彦兵衛の姻戚関係であることから飯積の共同墓地にある。
関ヶ原合戦(1600)以降は江戸幕府が分断政策を取り、美濃の地域を細かく分けて統治した。江月、烏江、船附は尾張藩だったため、それらの地域の目付役として祖父江を徳川幕府直轄の天領とし、川瀬彦兵衛を祖父江の庄屋とした。祖父江は舟運の要所であると同時に物と情報が集まる所として重視された。川湊があり、江戸幕府から杭瀬川の通行権を得ていたので経済的に潤っていた。
祖父江輪中に関して、「郷土の治水」p.16に記述あり。
祖父江→杭瀬川下→上笠の排水に関して、「郷土の治水」p.82に記述あり。
表示位置は庄屋川瀬彦兵衛屋敷跡を示している。