川魚専門店の魚新は大正7年、江月で先々代が、近所の人が持ってくる魚をさばいて食べさせたのが始まりである。三神の人から魚を仕入れて、大垣・養老へ自転車で売りに行った。
魚新の佐竹家が所有する田が一町五反くらいあった。人が田へ行くためと牛用に、二艘の船があった。家の周囲に池があって、家の中から釣りができた。昭和前半当時は県知事も魚釣りに来たことがある。
魚の腹の泥をはかせるために生簀(いけす)が必要なので、家の敷地内に井戸が9本掘ってあった。
川や池に棹をさしておくとツボという貝がたくさんついて捕れた。夏には菱の実取りをした。大垣の人が魚新までドジョウを取りに来て、名古屋の市場へ売りに行ったり、三神の人がウナギの稚魚を捕まえて名古屋へ売りに行った。大きいウナギは魚新で裂いて売った。
魚新の先代(昭和30年前後)の頃、ふなやすではドビンやツボなどの貝を売りにきたのを一晩かけてゆで、朝日の昇る前に桑名まで売りに行った。
昔の飯田村の中の結婚式はたいてい魚新で執り行った。お祝い料理として、「ケンチン蒸し」というのがあった。鯛の腹の中に、野菜や豆腐を練っていれて、蒸し焼きにしたものである。
魚新で作る料理に、鮒やモロコの甘露煮、鮒の昆布巻き、鮒みそ、川エビの料理などがある。以前はハエの料理もあった。
また、郷土料理として小さい鮒をみじん切りにして酢につけて柔らかくしたものを酢味噌で食べるドンガネ酢がある。ドンガネは眼鏡の意味で、この料理名のいわれは魚の内蔵を抜いて、身を輪切りにすると眼鏡みたいになるからである。鮎で作るとおいしいがこの辺りにはいないので鮒で作った。
また、鮒の甘露煮のことを炭火で24時間たいたため、24時間だきとも呼んでいた。現在鮒は四国からの養殖を運んでくるが、昔はカゴに卵がついてまっ黄色になるほど鮒がいた。
昭和30年代には川でツボ貝(タニシ)やカラス貝などを獲り、自宅(ふなやす)で食べた。
川に打った杭に綱を張ってドッペというカゴを下げて魚を入れておいた。堤防が低かったので家から降りて行って魚をとりに行った。その頃はふなやすも五三川へ階段で降りて行って同じように魚をとりに行った。ふなやすへは志津や海津市南濃町津屋から魚を売りにきていた。ふなやすの祖父が料理屋を始めるにあたって魚新に相談にきていた。
三神の人で魚新に魚や貝をおろすことで生計を立てている人がいた。役場の人からの聞き伝えによれば、魚新が江月で創業した頃、創業者の妻が店に出入りする子供から大人まで食事を振る舞っていた。現魚新当主のいとこは子供の頃に皆が並んでご飯を食べている風景を見た記憶があるとのことである。
魚新では、土建屋の頼母子講が開かれることがあった。
魚新の佐竹氏の先祖は、茨城県の出身である。関ヶ原の戦いで石田側について関東に帰れなくなり、岐阜に住みついたと聞いた。先祖は江月と飯田に分かれて住んだ。過去帳は水害で流失したが、過去帳が記録される以前から佐竹家は存在していた。
佐藤恭一氏の父親が池と土地を貸してくれるということで、江月から移住した。3町歩全て地元の地主の池であった。

Posted in その他, 伝説, 先人, 多芸西部, 小畑, 生き物, 祭礼, 経済, 食事 | Tagged , , , , , | Leave a comment
菱の実=水辺の草、実を食する。(高木 ケンチン蒸し=鎌倉の精進料理、巻繊(建長)汁から取った料理名か。ケンチン汁は大根、にんじん、ゴボウ、里芋、蒟蒻、豆腐などを使うのが特徴。 表示位置は魚新を示している。