飯田には一時、寺院が11箇寺あったが、なぜ多くの寺院が建てられたかは不明である。相順寺は庄屋の菩提寺のような存在であった。
かつて飯田に在住、現在は大垣市船町で八百屋を営む高木氏から梵鐘を寄進されているということを聞いたが、この高木氏は門徒ではない。高木氏の先祖は、江戸時代は飯田の有力者で、大垣に出郷して出世したので、先祖の故郷の寺に寄進したものと思われる。
飯田の墓地は現在、飯田の集落の西にあるが昔は相順寺境内にあった。一番古いもので宝暦年間(1751-1763)の墓標があり、その中にこのあたりではあまりみられない柴田姓の墓標があったが、どのような一族であったかは分からない。
竹林山(ちくりんざん)という山号は明治期につけられ、室町時代の連歌撰集である竹林抄からあてたのではないかと考えている。寺号はいつ付けられたか不明である。大垣市史に相順寺の記述があり、養老郡史と相違がある。相順寺は大垣市小野町にある専勝寺の末寺らしいといわれるが、真偽は不明である。
江戸末期には相順寺で寺子屋が開かれていた。相順寺敷地内の、現在は畑になっている寺子屋跡地から石墨が見つかった。現在は無いが、かつては多良の北高木家から二重楼門が移築されており、門の上に鐘楼がある造りになっていた。二重楼門の彫刻は運慶の弟子、丹慶の彫ったものであるらしい。門は大正10年(1921)か11年 (1922)に台風で倒れ、現在では何も残されていない。現在の本堂は元和 6年(1620)に建立されている。
元は天台宗の寺院であった。本堂の屋根様式が天台風となっている。修復は正徳年間(1711‐1715)に成されている。
欅製の御文箱を乗せる台は、寛永年間(1624‐1644)8代将軍徳川吉宗の時代のものである。船附の人から寄進されたと裏書にあるが、現在は船附に門徒はいない。
寛永5年(1629)に開祖が亡くなったことが法名軸から分かる。
名古屋から厨子(ずし)が寄進されており、裏書から元禄年間(1688‐1704)に修繕されたことが分かる。
理学博士であった青山新一氏は、楠木正成のように立派になってほしいとの願いを込めて楠の木を寺子屋のあった相順寺と飯田の八幡神社に寄進した。相順寺の楠の木は大きくなりすぎたので伐採された。
明治頃までは各門徒の家には仏壇がなかった為、葬式のときには御代本を貸していた。葬式の際の行列は、自宅から手次ぎ寺の前を通って斎場に向かった。
飯田地区では相順寺が一村総持であったために村中の各字から一人ずつ年行司が出ていたが、他の寺院と行事が重なってしまうため平成20年頃からは門徒のみで寺の行事の世話をしている。
「飯田に過ぎたるもの」として「(相順)寺の門」が唄われていたことから、相順寺の山門が立派であったことが伺える。
相順寺門徒の大橋一党は揖斐川沿いや川沿いに多い。佐藤一党は滋賀県から来たのではないかと思う。
薬師院は昭和27年に県庁へ寺として届けた。院の責任役員記録が保管されている。
大春(たいしゅん)禅師が享保元年(1716)に薬師院を開いた。薬師院開祖からの位牌があり、最古のものは享保年間(1716)である。大坪村代々の庄屋、日比朝右衛門の墓標が薬師院にある。また、中世平安時代のものかと言われている五輪塔がある。
薬師院本尊の前を素通りする人が必ず馬から落ちるという障(さわ)りがあったため、いわば目印として地蔵を設置し、薬師院本尊へのお参りを促した。
薬師院に本尊があるからこそ区民が健康でいられるという考えから、本尊の場所を移動することは拒んでいる。
祖父江にかつて渡船場があった。その近くには潜り橋がかけられたが、今は無い。
祖父江輪中は34町の広さで日本でも最も小さい輪中である。性質、構造、景観、施設は江戸時代から変わっていない。また排水機を各輪中が所有している地域もこの牧田川以北のみである。江戸時代の統治の流れを組んでいる。段海村は多芸、不破、安八の三つの郡と接点があった。この郡境は古代から政争地域として重要な場所であった。段海村は明治7年(1874)祖父江村に合併された。
現大垣南自動車学校付近の祖父江輪中の断面から判断すると、輪中の内側には川の痕跡が見られない。輪中は川からかなり離して作られたものであろう。輪中の土盛りは3重になっていた。
祖父江輪中は牧田川から土を取った。また、現在の位置は元からほとんど動いていない。
祖父江輪中の守り神として、祖父江字前田地内に水神を祀っていた。