室原から大坪へ排水の迷惑料が入ってきていた。
日吉地区字豊の養老町水道の水源地に河間があり、その水が色目川に流入するため大坪は用水の確保には苦労しなかった。
蛇持の用水と大坪の排水の圦(いり)は同じ所にある。また、他にも圦は数箇所にあった。
大坪若宮神社を境に、西側の大坪集落側が土地が高く、神社より東側が低くなっている。
除(よげ)が大坪内でも3箇所ある。
大坪若宮神社の北西角に土地改良時の頃の昭和38年9月の定杭がある。
大坪の地名は奈良時代の条里制の名残である。養老町の南端に小坪という地名があり、大坪の地名の由来は、小坪よりも土地が広かったことからついた。現在の大坪団地は、元々余除地(よじょち)として、年貢を免除されていた土地であった。
大坪は天領のため里道は比較的広く、巾6尺(約2.3m)あった。農作物の往来に多く使われた。小さい道で巾3尺(約1m)であった。
色目川の水位が上昇したことで氾濫が多くなったため、標高の高い、字堀ノ内のあたりに大坪の集落全体が移動した。
昔の大坪村と移動した現在の大坪村では高低差が1mほどあり、現在の方が高い。
大坪村は天領であったために段海湊から笠松代官所へ行って年貢米を納めた。
表示位置は定杭を示している。