石畑川を往来する船の湊が勢至にあった。
丁石は、神社仏閣や名所などへの距離を示した道標の一種である。養老の滝までの「瀧道」と言われた道筋には滝20丁から滝1丁までが建てられていた。明治の養老公園開発時の道路拡幅などにより、数基の道標の位置が分からなくなった。
正慶寺(養老164)の上がり口に「左たき道」と書かれ享保年間(1716-1735)に建てられた道標がこのあたりでは最も古い。
「伊勢街道右入口」という20丁にあたる道標があったと古老は語るが、現在は所在不明である。
白鶴荘(柏尾463-1)の角に19丁があったが、現在は紛失し、近鉄により20丁の道標が建てられている。柏尾谷の所に18丁があったが堰堤工事の際に紛失した。
17丁から13丁は所在不明である。
白石の大神宮の近くに現存する中では最大の12丁がある。11丁及び9~7丁は現在は紛失している。
養老館(養老534)の東に10丁がある。
唐谷に6丁が倒れていたが掬水(養老公園1286-1)の東を工事した時に修復した。
養老神社の東に5丁、そこから上の方へ上がっていくと4丁がある。4丁は倒れていて数字が見えないので推測による。
3丁は滝谷に転がっていたものが、昭和47年頃の瓢箪池を造成する工事で誤って紅葉橋右岸上の護岸に組み込まれた。万代橋の東に2丁、万代橋を回ったところに1丁がある。
白石の牧場では最盛期で48頭の牛が飼われており、この辺りでは最も多かった。大洞林道を上がって行くとアケビ平を経由して牧場を通り、三方山に出たと記憶している。
草刈り場と呼ばれていた場所では、朝、草を刈り、日中は天日に当て乾燥させ、夕方に運搬を行った。刈った草は、田畑の肥料として使用された。戦時中は軍用飼料として提供していた。草刈り場の土地を巡っての争いも起きた。
白石ではミカンの生産量が多く、戦時中は米と交換することもあった。昭和43年か47年に「養老町ミカン組合」を設立し、京ヶ脇と柏尾を合わせ会員は43名の大所帯であった。2010年現在は、収穫したミカンは高田の人が買付をしジュースに加工される。
養蚕は昭和30~40年まで行われていた。ほとんどの世帯が養蚕で生計を立てていた。山麓園(柏尾583-9)のあたりは桑畑だった。終戦前までは、他所へ勤めに出る者はほとんどおらず、若者は林業に従事していた。
北井戸、口郷のあたりの水田10反程と、林業で生活していた。
三方山の頂上には牧場があったと聞いている。牧場とは言ったが実際に牛がいたかどうかは定かではない。牧場には滝からか、もしくは上石津の方から上がったのではないかと思う。上石津側の麓は海抜が高い為、頂上までの距離が短い。養老側からは滝から上がるルートのみである。
戦時中三方山に戦闘機が気圧の変化のせいか墜落し、現在も慰霊碑が2基残っている。供養は毎年9月5日に直江が行っている。戦闘機の残骸は京ヶ脇の稲荷神社に下ろされたと伝えられている。
三方山より北に笹が生えており、昔はそこまで草刈りに行き背板(せた)に背負い、イシバ(漢字不明)と呼ばれる木で作った橇に草を乗せて引っ張って運搬した。刈った草は、牛の飼料や畑の肥料に使われた。小倉谷から登るルートは現在は荒れてしまった。笹が燃え、山火事が発生したことがある。