佐竹家(飯田143)は、多良の旗本高木三家の内、北高木家の建物を明治5年に移築したもので、式台(しきだい)様式の玄関、侵入者対策になっている母屋の釣天井に特色がある。
名古屋市立大学の助教授に調査してもらったら、間違いなく高木家のものだった。助教授によれば、これだけ手を入れずに続いている家は珍しいそうである。
佐竹家の通用門は、元々は飯田地区の住民大橋家の門が移築されたもので、佐竹家で使用された後は大垣市上笠町の国枝家へ移築された。
佐竹家の庭のあちこちに池があるのは洪水時に土砂を築堤用の土として提供したからではないかと思う。
佐竹家は濃尾震災でもびくともしなかった。家には作男用の男部屋や、女部屋、北側には馬屋、便所が3つあった。舟の櫓(ろ)があったことから、交通に舟を使っていたと思われる。
シロアリなどで家がぼろぼろなので早く跡継ぎを決めてきちんとしておきたいと考えている。
屋敷は植物だらけだが、薬屋をやっていた為特に薬草が多い。
水琴窟(すいきんくつ)と思われる跡も昔あった。またお茶室があったが現在は扉だけが残っている。
佐竹一族は関ヶ原の合戦以降移ってきた人が多くいる。元は茨城の出のようである。代々跡継ぎが早死にで家のことが伝わらない。佐竹家は寺小屋をやっていたらしい。また、庄屋の元締めだったとも言われている。
楽那寺とは親戚である。
佐竹家は清和源氏の流れをくんでおり、菊の紋章もある。
蓮光寺門徒にも光敬寺門徒にも親戚がいる。一色の西林寺(昔は西林坊だった)が手次ぎ寺である。
佐竹家の人間がお嫁に行くときは駕籠に乗って行った。今もその駕籠がある。徳川幕府の祐筆を先祖が務めていたと伝わっている。
東京の神田にも別の佐竹一党がいた。
小畑川の橋の欄干のタイルに小畑橋の名前が書かれているのは、佐竹貞則氏の父親が書いたものである。
蓮生寺では、自宅のみかん箱の中から発見した銅鏡を所有している。1500年代のもので、亀・鶴・松があしらわれている。熱田神宮との関蓮を示す文書があり、鏡もそれに付随するものではないかと思う。
古文書は「蓮生寺由緒記録」と「記録」の計2冊が保管されている。
蓮生寺の報恩講は1月2・3・4日に執り行われていたが、現在は一日短くなり1月2・3日で行われる。三昧供養は8月14日に勤められる。昔は餅を供えたが、現在は煎餅を供える。
他の地から移住してきた現住職(平成22年)からみると、養老では昔からの風習も細かく行われており、信仰や法要に対する気持ちが強いと感じられた。蓮生寺の門徒は、大坪・下笠・室原に多い。他所門徒は少数である。本堂は明治24年(1891)濃尾震災で倒壊し、9名が本堂の下敷きになったが全員助かった。濃尾震災の翌年に本堂は再建された。
蓮生寺は元々大坪字堀之内に慶長2年(1597)に開かれ、元禄9年(1696)に色目川の水害の為、現在地に移転した。本来は集落の西に墓地があるものだが、水害の為村が移動し現在は集落の東に墓地がある。御代本は江戸時代初期、本願寺が東西に分かれる前の物を所有している。木仏像は寛政3年(1626)に作られたものである。
福島県の蓮生寺が発祥で平成22年現在で26代目となり、大坪に創建されてからは平成22年現在で16代目となる。
小畑千人塚は関ヶ原の合戦(1600)で敗れた落武者が自決したと伝えられており、何本か松の木が植えられていたが、その松の最後の一本が平成13年頃の台風で倒れてしまって今は残っていない。小畑千人塚は、現在延命地蔵尊や白龍大明神が祀られているところで、武将の鎧兜や刀が発見されたという言い伝えがあるほか、白い蛇を見かけたという言い伝えもある。
延命地蔵尊は大垣市の藤井康司先生の指導のもと制作された。白龍大明神のご神体は雌雄の蛇が絡み合うような形の像と言われている。徳風会は小畑千人塚を祀るためにできた会で、現在(平成22年)の会員は23名である。昭和27年に延命地蔵尊と白龍大明神の建立のお祀りが行われ、その時には小畑地区の区長が全員参加して執り行われた。その後4月29日と9月15日にお祀りをしている。延命地蔵尊の供養については相順寺にお願いしている。
平成17年のお祭りの時に石の塊のようなものが見つかり、洗ったところ地蔵であることが判明した。今は祠の脇に立てかけてある。
養老町小畑の江月には大神宮がある。未調査のため、詳細は不明である。
田の神明神社の総代は田を6班に分けた中からそれぞれ1名ずつ協議により選出され、さらに総代6名の互選により、2名の責任総代を決める。総代の任期は3年である。
田の神明神社のお祭りは年4回行われている。細かい日時については氏子総代が決めているが、年間の行事は3月の春祭り、6月の田植え後に行われる「野上がり祭」、10月の大祭、11月の新嘗祭である。
野上がり祭では田植え団子を作っていたが、今はほとんど作っていない。大祭では神社の中心に太鼓を据え、その周囲で豊年踊りを踊る。今から昭和の終わり頃までは男性が化粧をして女装し、着物を着て網笠をかぶって踊っていた。太鼓のリズムは二種類あり、鷲巣の白山太鼓のリズムに似ていて、太鼓の鼓面を多く叩くものと、太鼓のヘリの部分を多く叩くものとがある。現在も4、5人が叩くことができ、夏休みには子供を交えて太鼓を教え、伝統を伝えている。
田の太鼓のサイズは鼓面の部分の直径が約120cm、胴の長さが約150cmである。太鼓はこの一張りのみを所有している。通常、4人がかりで持ち運んでいる。太鼓は平成17年頃に革を張り替えて、胴も一緒に修理した。
修理に出した店はおそらく桑名であろう。祭の時は今は6本ある石灯篭に蝋燭を灯し、6枠屋形を立てて提灯に明かりを入れるだけだが、以前はお宮の入り口から県道小倉-烏江線まで提灯を並べていた。
元旦の門松は以前は氏子総代が中心になって作っていたが、氏子総代を若い人がやるようになり、平成20年頃からは出来上がったものを買ってきて飾るようになった。