養老町飯ノ木の道標の位置は変わっておらず、養老から高田へ向かう途中の分岐点に建てられていた。また、関ヶ原への道しるべともなっていた。「右 高田 関ヶ原 左 養老 道」とある。
八幡神社(口ヶ島)の入り口に日露戦争忠魂碑、日清戦争の碑、台湾征伐の碑、弁財天が建てられている。日露戦争での戦死者は山手の方は多いが、広幡では一人。今の自治会館の所に小学校があり、もとは小学校の中の東側の突き当たりに碑が建てられていたが、県道を広げるということで現在地に移された。昭和9年ごろに今の天皇陛下のご婚礼を祝してお宮さんに玉垣が作られたが、それと同じ時期に移された。昭和10年代の後半、3月10日の陸軍記念日に明治以降の戦死者の碑をお参りした中で、この碑にもお参りした記憶がある。
旅順陥落百年の時に神官を呼んで式典を行った。
口ヶ島(くちがしま)の元庄屋は、田中耕馬(たなか こうま)氏である。戦後行われた農地改革まではかなりの力を持っていた大地主であった。2012年現在から4代前の口ヶ島の村長である。
田中耕馬氏は現在の広幡公民館周辺の土地に広い庭園と複数の蔵がある大きな屋敷を所有していた。かつて田中家の敷地は金草川の堤防下まで続いており、家の裏まで舟で行けたと言われている。耕馬氏の両親は早くに亡くなっており、当時耕馬氏は20代であったことからご祖母が後見として実権を握っていた。
田中耕馬氏は学校を建てる等、広幡地区に貢献をした人物であった。
口ヶ島は田中耕馬氏主体で何でも決まったが、地区の集まりには絶対に来なかった。耕馬氏が用事がある時は、耕馬氏の奥様を通して呼び出され、村の者が行かなければならなかった。家に行くときは昔の庄屋の家は普通の百姓は草履では入れなかったため、門の所で裸足になった。
田中耕馬氏の屋敷は、面積では6反(約5,950㎡)ある。屋敷の高さも、金草川(かなくさがわ)の堤防と同じにしてある。屋敷の南隅にある井戸も金草川の堤防の高さまで自噴があった。現在も井戸は鉄管があがった状態で潰さずに残してある。井戸の近くにある池は、現在は荒れているが、石橋が架かっており、以前は鯉が泳いでいた。また、母屋の北東に水車が2台回って米を搗いていた。それほどの水量があった。
屋敷の蔵は、屋根板などの構造が他と違った。垂木と垂木の間に一枚板が据えられていた。
耕馬氏の屋敷の門の東側には、5トン位の大きな庭石がある。勢至(せいし)の谷から持って来たという伝説がある。その当時は、自動車も通らない時代だったので、沢田(さわだ)からコロで引き、村の裏まで船を使い、屋敷まで運んだといわれている。耕馬氏は権力があったので、そのようにコロを使って運ぶことができたのではないだろうか。
田中家のお墓は、元は字寺田地内にあった。字寺田は口ヶ島の東部で、金草川の堤防に上がる坂の途中に玉垣などもある立派な墓があったが、その後は自費で撤去して、口ヶ島の共同墓地に新しく墓を建てなおした。
田中家の蔵の解体の際に蔵の中を覗いたところ、中には殆ど何も残されていなかった。残されていたものの中には古い年貢台帳があった。他の古文書には、蔵を建てた人などが載っていた。それらの古文書は焼却してしまった為、今はもうない。
現在は屋敷の周囲の石積みが残っているが、立派な石積みである。木も石積みの周辺に生えていたが、抜根すると周辺の石積みも緩んでくる恐れがあるため、根は残してある。南の石積みに壊れかけた箇所があったので修理した。
終戦間近の頃、A氏が台湾の西、温州の部隊に入隊していた。半年くらいで幹部候補生となり、集合教育の為に南京に移り、やがて終戦となった。飛行機が飛ばなくなったと思っていたら終戦を告げられ、玉音放送を聞いた。南京から上海で本体と合流、日本の佐世保に戻った。
昭和10年代後半の小学生の頃、空襲があると川に飛び込んで逃げた。別庄山の爆弾はすごい音がしたと記憶している。昭和20年の春に田代神社の裏の高田小学校のあった辺りで兵隊検査を受けた。高等2年生(現在の中学2年生)だった。甲種合格だったが、実際に従軍する前に終戦を迎えた。
赤紙の来た家からは兵隊が出て行ったが、太鼓を鳴らして烏江橋まで送る「兵隊送り」があった。
終戦と同時に米軍の指示により日本中の各学校で二宮金次郎像を取り壊した。その中でも広幡では時の村会議員の意向からか忠霊塔や二宮像を隠し、守ったが、奉安殿は取り壊された。軍国主義から民主主義への変化であると感じた。
戦死者の追弔会は広幡では区長会及び遺族会主催で8月15日に行っている。
神式でも仏式でもない。養老町としては9月15日に慰霊祭を行っている。
大跡まで、象鼻山に投下された爆弾の音が聞こえてきた。
口ヶ島の人が徴兵されたときに第九師団のため敦賀に行かなくてはならなかったが、大垣には川を越すのに道が無かったため、垂井に出て汽車に乗った。栗原から南宮さん廻りで行った。
また、同じく口ヶ島で、兵隊を送りだす時にお宮に人が集まり、女性が太鼓を叩きながら、美濃高田駅まで見送ったという人もいた。
供出制度として、取れた米の15俵中13俵は国に出し、家の分は2俵のみだった。
飯ノ木には商家が多かった。岩道には教員や大工が多かった。
2006年に南岩道出身のスノーボード選手、中島志保選手がトリノ五輪スノーボード日本代表として9位となった。公民館をベースに取材等に対応していた。
町民運動会では、唯一の部落対抗競技として綱引きを行う。
広幡の緑町は団地の敷地が飯ノ木と大跡に別れている。
赤ん坊が生まれてから30日経った時に生まれた子を道に捨てて、誰かに拾ってもらうと丈夫な子になると言われていた。実際に西岩道の辺りで隣の子を拾ったという話もあった。
薬研で火薬を細かくしたものを木の玉の中を刳り貫いたものに入れ、紙で包んで花火を作っていた。村社祭典煙火番組を明治の終わり頃までつけていた。明治39年の番組のコピーがある。
口ヶ島の人で、三神の浄蓮寺と大垣市高渕の善徳寺の2箇寺から御縁をいただいている家がある。浄蓮寺は男門徒のお寺、善徳寺は女門徒のお寺という区別。報恩講には2箇寺等しく参加している。
口ヶ島字寺田地内には足利時代に作られたと伝えられる阿弥陀如来立像を個人で所有されている方がいる。像を持ってきた方について、文化文政期から安政期にかけてA家に養子で入られた方が持ってきたといわれている。ただしその養子の出生について、ご主人と奥様で食い違っており、ご主人は中山道に住んでいた方、奥様は赤坂の今井さんと言われていた。
徳川初期に描かれたという添書きがある聖徳太子立像があり、明治初期に購入されたものと伝わる。養老町の指定文化財という証書がある。昭和38年に登録されている。
広幡は5つの地区から成り、それぞれ領主が異なることから、地区ごとの気風やしきたりが、うまく表現はできないが異なるように感じている。
祭りについても異なる日に行っているが、それは一つの理由として神官さんの都合によるところもある。近年は岩道地区を大橋さんが、西岩道地区を西脇さんが受け持っているほか、養老地区の田中さんも受け持っているところがある。口ヶ島はお供え物を出して、丁寧なお祭りをしている。
広幡のあるご夫婦に男子が生まれなかったので占いに見てもらったところ、屋敷内に祀ってあるお地蔵が良くないと言われた。そこで南濃町のお寺にお地蔵さんを預けたらしばらくして男の子を授かった。お地蔵は日露戦争に出征して戦死されたご祖父を祀っていたものであった。
広幡地区は、岩道、西岩道、口ヶ島などがあるが、部落間の優劣、仲の良し悪しはなかった。ただし、お互い何となく決まっている部落の順番はある。学校がある中心地・口ヶ島を筆頭に、飯ノ木、大跡、岩道、西岩道である。その順番は裕福さとか、名声ではなく、慣れのようなものである。例えば、運動場に並ぶ時も口ヶ島、飯ノ木、大跡、岩道、西岩道、新しく出来た緑町、南岩道の順番である。
運動会で、分団対抗リレーがあったが、ずっと岩道ばかり優勝していた。岩道が学校まで一番遠く、足が鍛えられたからではないだろうか。反対に、学校が地元にある口ヶ島は運動会では弱かった。今は直線の通学路であったが、当時はぐにゃぐにゃの通学路であった。堤防、原っぱを歩いて、口ヶ島の村を通って、一番西の学校まで行ったものである。小さい子は、途中で漏らしてしまうほど、遠かった。子どもは、道草をして帰るので、余計に運動量が違って、遠くから通う子は自然に鍛えられていた。
登校は、堤防の中腹や、堤防の下を歩いた。堤防の上は歩いていない。金草川の堤防も南側の下を歩いた。堤防の上は、北風、西風が吹くと当たりが強いが、下にいると風が和らぐためである。
広幡には金草川があり、水運の利を生かして文化を先取りをしていた。