終戦間近の頃、A氏が台湾の西、温州の部隊に入隊していた。半年くらいで幹部候補生となり、集合教育の為に南京に移り、やがて終戦となった。飛行機が飛ばなくなったと思っていたら終戦を告げられ、玉音放送を聞いた。南京から上海で本体と合流、日本の佐世保に戻った。
昭和10年代後半の小学生の頃、空襲があると川に飛び込んで逃げた。別庄山の爆弾はすごい音がしたと記憶している。昭和20年の春に田代神社の裏の高田小学校のあった辺りで兵隊検査を受けた。高等2年生(現在の中学2年生)だった。甲種合格だったが、実際に従軍する前に終戦を迎えた。
赤紙の来た家からは兵隊が出て行ったが、太鼓を鳴らして烏江橋まで送る「兵隊送り」があった。
終戦と同時に米軍の指示により日本中の各学校で二宮金次郎像を取り壊した。その中でも広幡では時の村会議員の意向からか忠霊塔や二宮像を隠し、守ったが、奉安殿は取り壊された。軍国主義から民主主義への変化であると感じた。
戦死者の追弔会は広幡では区長会及び遺族会主催で8月15日に行っている。
神式でも仏式でもない。養老町としては9月15日に慰霊祭を行っている。
大跡まで、象鼻山に投下された爆弾の音が聞こえてきた。
口ヶ島の人が徴兵されたときに第九師団のため敦賀に行かなくてはならなかったが、大垣には川を越すのに道が無かったため、垂井に出て汽車に乗った。栗原から南宮さん廻りで行った。
また、同じく口ヶ島で、兵隊を送りだす時にお宮に人が集まり、女性が太鼓を叩きながら、美濃高田駅まで見送ったという人もいた。
供出制度として、取れた米の15俵中13俵は国に出し、家の分は2俵のみだった。
表示位置は忠霊塔を示している。