象鼻山にはソヨゴの木が多かった。
象鼻山1号墳の斜面にはヤマツツジが生え、象鼻山の山頂付近では松茸が取れたので、入山料をとり、松茸狩りを行っていた。利益は区費に算入されていた。昭和30年ころまでは芸者を呼んで山頂付近でお祭りを行ったりするなど盛んだったが、昭和50年代には松茸が取れなくなり、ほとんど行われなくなった。その理由は、ゴウカキと呼ばれる森の地面に落ちた木の枝や落ち葉の掃除をしなくなったこと、赤松の若木が無くなったことなどが推測される。
昔は各戸の屋敷の内にカキ、クリ、イチジクやケヤキ等、食用であったり材木や燃料として使えるものを植えていた。
防風林としても樹木を植えていた。家の西側と北側には大木があった。
象鼻山山頂の1号墳に明治記念碑が建っていた。記念碑は1号墳の発掘調査に伴い、現在100mほど離れた位置に移動してある。
象鼻山には永禄年間(1558~1569)に、竹中重治が隠棲したと伝えられる岡山城があった。
養老山には様々な呼称がある。象鼻山は昭和15,6年ごろ(1940,1941)に別庄山(べっしょうやま)から象鼻山と名称が変わった。象鼻山南端は岡ヶ鼻と呼ばれていたが、現在は県道227号線が通り、ほとんど岡ヶ鼻と呼ばれた頃の面影は残されていない。
象鼻山の南側のふもとに岡ケ鼻日中戦争碑と芭蕉句碑がある。
象鼻山は江戸時代後期頃は橋爪村総持ちの村山であったが、明治の廃藩置県によって村人個人に地権が与えられ、橋爪と別庄の住人の割山となった。
橋爪にはもともと村で総有する入会地(いりあいち)等はなかった。象鼻山の土地を割山として分割する明治以前は、誰の所有であったかは不明である。割山の方法はくじ引きで所有場所を決められたのではないだろうか。戦前~戦後直後まで橋爪の住民は、象鼻山の自分の所有地で薪を取っていた。現在80歳代で健康な人の他には、割山の土地を活用している人はおらず、ほとんど管理されていない。
割山の土地の境にはクチナシの木を植えて目印にしていた。クチナシの木は、白い花が咲き、冬になると赤い実がつくため目立つこと、山に自生していなかった植物であるということから目印にされたのではないか。
象鼻山は割山として村民に細かく土地を分配した為、一括で土地を売却しづらいという点等があり、いくつもの古墳が残ったのではないか。
表示位置は象鼻山を示している。