口ヶ島(くちがしま)の元庄屋は、田中耕馬(たなか こうま)氏である。戦後行われた農地改革まではかなりの力を持っていた大地主であった。2012年現在から4代前の口ヶ島の村長である。
田中耕馬氏は現在の広幡公民館周辺の土地に広い庭園と複数の蔵がある大きな屋敷を所有していた。かつて田中家の敷地は金草川の堤防下まで続いており、家の裏まで舟で行けたと言われている。耕馬氏の両親は早くに亡くなっており、当時耕馬氏は20代であったことからご祖母が後見として実権を握っていた。
田中耕馬氏は学校を建てる等、広幡地区に貢献をした人物であった。
口ヶ島は田中耕馬氏主体で何でも決まったが、地区の集まりには絶対に来なかった。耕馬氏が用事がある時は、耕馬氏の奥様を通して呼び出され、村の者が行かなければならなかった。家に行くときは昔の庄屋の家は普通の百姓は草履では入れなかったため、門の所で裸足になった。
田中耕馬氏の屋敷は、面積では6反(約5,950㎡)ある。屋敷の高さも、金草川(かなくさがわ)の堤防と同じにしてある。屋敷の南隅にある井戸も金草川の堤防の高さまで自噴があった。現在も井戸は鉄管があがった状態で潰さずに残してある。井戸の近くにある池は、現在は荒れているが、石橋が架かっており、以前は鯉が泳いでいた。また、母屋の北東に水車が2台回って米を搗いていた。それほどの水量があった。
屋敷の蔵は、屋根板などの構造が他と違った。垂木と垂木の間に一枚板が据えられていた。
耕馬氏の屋敷の門の東側には、5トン位の大きな庭石がある。勢至(せいし)の谷から持って来たという伝説がある。その当時は、自動車も通らない時代だったので、沢田(さわだ)からコロで引き、村の裏まで船を使い、屋敷まで運んだといわれている。耕馬氏は権力があったので、そのようにコロを使って運ぶことができたのではないだろうか。
田中家のお墓は、元は字寺田地内にあった。字寺田は口ヶ島の東部で、金草川の堤防に上がる坂の途中に玉垣などもある立派な墓があったが、その後は自費で撤去して、口ヶ島の共同墓地に新しく墓を建てなおした。
田中家の蔵の解体の際に蔵の中を覗いたところ、中には殆ど何も残されていなかった。残されていたものの中には古い年貢台帳があった。他の古文書には、蔵を建てた人などが載っていた。それらの古文書は焼却してしまった為、今はもうない。
現在は屋敷の周囲の石積みが残っているが、立派な石積みである。木も石積みの周辺に生えていたが、抜根すると周辺の石積みも緩んでくる恐れがあるため、根は残してある。南の石積みに壊れかけた箇所があったので修理した。

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表示位置は旧田中耕馬氏宅を示している。