飯ノ木には商家が多かった。岩道には教員や大工が多かった。
2006年に南岩道出身のスノーボード選手、中島志保選手がトリノ五輪スノーボード日本代表として9位となった。公民館をベースに取材等に対応していた。
町民運動会では、唯一の部落対抗競技として綱引きを行う。
広幡の緑町は団地の敷地が飯ノ木と大跡に別れている。
赤ん坊が生まれてから30日経った時に生まれた子を道に捨てて、誰かに拾ってもらうと丈夫な子になると言われていた。実際に西岩道の辺りで隣の子を拾ったという話もあった。
薬研で火薬を細かくしたものを木の玉の中を刳り貫いたものに入れ、紙で包んで花火を作っていた。村社祭典煙火番組を明治の終わり頃までつけていた。明治39年の番組のコピーがある。
口ヶ島の人で、三神の浄蓮寺と大垣市高渕の善徳寺の2箇寺から御縁をいただいている家がある。浄蓮寺は男門徒のお寺、善徳寺は女門徒のお寺という区別。報恩講には2箇寺等しく参加している。
口ヶ島字寺田地内には足利時代に作られたと伝えられる阿弥陀如来立像を個人で所有されている方がいる。像を持ってきた方について、文化文政期から安政期にかけてA家に養子で入られた方が持ってきたといわれている。ただしその養子の出生について、ご主人と奥様で食い違っており、ご主人は中山道に住んでいた方、奥様は赤坂の今井さんと言われていた。
徳川初期に描かれたという添書きがある聖徳太子立像があり、明治初期に購入されたものと伝わる。養老町の指定文化財という証書がある。昭和38年に登録されている。
広幡は5つの地区から成り、それぞれ領主が異なることから、地区ごとの気風やしきたりが、うまく表現はできないが異なるように感じている。
祭りについても異なる日に行っているが、それは一つの理由として神官さんの都合によるところもある。近年は岩道地区を大橋さんが、西岩道地区を西脇さんが受け持っているほか、養老地区の田中さんも受け持っているところがある。口ヶ島はお供え物を出して、丁寧なお祭りをしている。
広幡のあるご夫婦に男子が生まれなかったので占いに見てもらったところ、屋敷内に祀ってあるお地蔵が良くないと言われた。そこで南濃町のお寺にお地蔵さんを預けたらしばらくして男の子を授かった。お地蔵は日露戦争に出征して戦死されたご祖父を祀っていたものであった。
広幡地区は、岩道、西岩道、口ヶ島などがあるが、部落間の優劣、仲の良し悪しはなかった。ただし、お互い何となく決まっている部落の順番はある。学校がある中心地・口ヶ島を筆頭に、飯ノ木、大跡、岩道、西岩道である。その順番は裕福さとか、名声ではなく、慣れのようなものである。例えば、運動場に並ぶ時も口ヶ島、飯ノ木、大跡、岩道、西岩道、新しく出来た緑町、南岩道の順番である。
運動会で、分団対抗リレーがあったが、ずっと岩道ばかり優勝していた。岩道が学校まで一番遠く、足が鍛えられたからではないだろうか。反対に、学校が地元にある口ヶ島は運動会では弱かった。今は直線の通学路であったが、当時はぐにゃぐにゃの通学路であった。堤防、原っぱを歩いて、口ヶ島の村を通って、一番西の学校まで行ったものである。小さい子は、途中で漏らしてしまうほど、遠かった。子どもは、道草をして帰るので、余計に運動量が違って、遠くから通う子は自然に鍛えられていた。
登校は、堤防の中腹や、堤防の下を歩いた。堤防の上は歩いていない。金草川の堤防も南側の下を歩いた。堤防の上は、北風、西風が吹くと当たりが強いが、下にいると風が和らぐためである。
広幡には金草川があり、水運の利を生かして文化を先取りをしていた。

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小畑村でも同じで、学校が近い飯田の子は比較的体力がなかった。江月の子が、登校距離が約800mであったのに対し、飯田の子は50m前後なので、1日で歩く距離が全然違った。 小畑川の堤防では、現在も中段を歩いている。通学路は先人の知恵で、冬の伊吹おろしを防ぐように通路を決めていたようである。表示位置は広幡公民館を示している。