浄蓮寺は1537年に開基した。もと天台宗、現住職(平成22年)で24代目となる。法名軸によると、過去何名か女性の住職がいた。
牧田川より北から現在地に移動された。多芸御坊と呼ばれ、宇田のあたりにあったのでないかと思っている。
北野、下笠・三ツ屋、押越など、門徒の範囲は広い。
先々代の説教が卓越しており、この時に門徒を拡大した。先々代は海津市の緑林寺‎で説教を学んだ。その頃は、節談説教が主流であったが、本山から娯楽性が強い節談説教を禁じる動きがあり現在は少なくなった。
昔は門徒の取り込みを巡って本山で査問委員会にかけられることが、真宗大谷派ではよくあった。
平成22年現在、浄蓮寺は意外と門徒が少ない。直江の日比家、北野の野村一統が門徒である。
浄蓮寺の山号は「紫雲山」である。山号は自由に決めることができた。地名に由来するものや流行の言葉や大きな寺に倣った。紫雲山という山号は比較的多いようである。
浄蓮寺は御絵伝を本山から頂く間に戦争があり、もう届かないものだと諦めていたところ無事に届いた。
七高僧、聖徳太子はかなり傷んできているので、あまり触らずにずっと掛けてある。浄蓮寺は水が浸いており、七高僧や聖徳太子の軸も水に浸って乾かしたものが現在に受け継がれているのではないか。
本尊の阿弥陀如来像は開基からあるものかどうか定かではない。裏書は確認できなかった。
屋根の修復時、柱に元禄年間(1688~1703)の年号が書かれていたと修復に携わった大工から聞いた。
報恩講は11月22・23日、先々代の時は本山の報恩講終了後の12月に3日間行われていた。まだ寒さの厳しくない11月に報恩講を行い始めた時は周辺の寺院から「本山と同じ11月に行うのは良くない」と反感があったが、徐々に11月に報恩講を行う寺院が増えてきた。
報恩講は年行司中心に執り行われ、60~70名程がお参りする。年行司は一年交代で各地区2名ずつ選出された。年行司お斎やお磨きさんなどの世話をする。お華束やお斎は全て手作りする。
総代は10名で、5地区で2名ずつ選出され世襲制である。
永代経は春と秋に営まれる。
浄蓮寺の相焼香(あいじょうこう)は五日市の林覚寺である。
本堂は聞法道場と呼ばれており人が語り集う場所であったが、現在は法事の為にお寺があると思われている。
浄蓮寺の本堂で葬式が行われたのは5~6年前が最後である。
仏間のない住宅が増えたことによりお寺で法事を営まれる方が増えてきた。
浄蓮寺が移ってきたのは大墳村が形成された後なので、浄蓮寺と多岐神社との関わりはないであろう。
三神町には700世帯あり、その3分の1程度が浄蓮寺門徒である。
浄蓮寺の鐘の響きの良さを唄った里謡がある。戦時中、浄蓮寺の鐘は鉄製品等の供出も免れている。
大垣別院とは本山への諸々の申請時に関わる程度で、参詣はしていない。
浄蓮寺の先代の住職はかなり宗教活動に熱心な方だったので、口ヶ島や大跡や下笠を通って尾張の方にもよく布教にいかれた。お経をあげながら移動しては説法をされていた。三ツ屋に住むA氏が子供の頃、昭和10年代後半に、三ツ屋は津島街道沿いなので背中に仏様をお担ぎして歩く宗教家をたくさん見た。

浄蓮寺は多岐神社六坊の一つで、かつては寺号を青蓮寺といった。天文5年(1536)に本願寺第10世證如の直弟子となり、浄土真宗へ改宗して浄蓮寺と改められた。徳願寺文書には承応2年(1653)に浄蓮寺で二日講が営まれた記録がある。当寺には直江郷金屋に住んだ鋳物師の作と伝えられた鐘があった。鐘は戦時に供出されたが再び浄蓮寺へ戻って来た。

浄蓮寺は元々安久村にあったと伝えられており、多芸地区へ移転する構想の折に、北野村には江戸初期より寺院がなかったため、北野村への移転も考えられていた。

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