柏尾では毎年10月18日に観音さん祭りが行われ、存徳寺の住職がお務めをする。
観音さん祭りは養老むかし話に掲載されている大悲観音のお祭りである。
養老むかし話の「柏尾の観音」によれば、以下の話が残されている。
昔、大悲観音を背負ったお坊さんが柏尾で一休みしようと、柏の葉の上に観音様を置かれたところ全く動かせなくなってしまった。やむを得ずそこにお堂を建てると人々がお参りに訪れ、やがて立派なお寺になった。柏尾村の地名の由来は、この観音様の為に、柏の葉を山の尾に敷いたことから、こう呼ばれるようになったとのことである。
また、柏尾の観音様に関する話として次のようなものもある。
1800年頃に柏尾の村民達が、現大垣市久瀬川町の観音様が柏尾へ行きたがっている、という夢を見た。同じ晩に久瀬川町の村民も同じ夢を見ていた。夢のお告げを受けた双方が互いの村に向かっている途中、養老橋あたりの松の木の下で偶然合流し、お互い尋ね合ったところ全く同じ夢をみたことが分かった。久瀬川の観音様は柏尾で祀られることになった。
この観音様は昭和38年盗難に遭い紛失した。やがて岐阜の仏師に依頼し、柏の葉に座した木彫りの観音様を新しく迎えた。
平成5年か6年に柏尾の神明神社の本殿などと同時に、神明神社境内の向かって右にある観音堂も修復を行った。その際一時的に観音様と楓の木で彫られたお釈迦様も存徳寺で預かり、修復が終了した8月か9月に観音堂へ戻した。
その後の観音さん祭りの際、住職が二重扉を開けたところこの観音様の姿が無く、再度盗難に遭い紛失してしまったことが分かった。急遽、存徳寺の観音様を運びお勤めをした。現在住職がいろいろ思案中であるが、村の奥まった所にお堂がある為また盗難に遭うかもしれないとの不安があり、観音さん祭りでは、毎回存徳寺の観音様をお堂に運ぶことにしている。

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258号線東の養老郡に安八郡の境が入り込んでいる安八郡輪之内町塩喰(しおばみ)地区は、元々は川の流れが有った為である。

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平成22年現在、下笠には昔からの家とその分家、他地区から来た家を合わせると36戸数ある。下笠1457の家の北側は下笠代官屋敷跡である。さらにその北側は昔の刑の執行場があった。
中島家は、代官として現在の美濃市から養老町下笠に来た石原清左衛門氏の家臣団の内の一家だった。石原清左衛門氏は美濃市の清泰寺(せいたいじ、美濃市殿町1439-1)に菩提寺がある。石原氏は養老下笠の後は四日市、大津へと移っていったが、中島家のように、養老町にとどまる家臣もいた。
税を取り立てる代官側と税を払う住民側では中々うまくいかなかった。早戸神社は下笠字西江下に祀られており、代官石原清左衛門が崇拝していた。そのため代官の住む東地域がお祭りの中心になっていたが、明治に立場が逆転した。その時に石原氏が早戸神社も地元の人に委ね、独自に素盞嗚(すさのお)神社を祀った。
石原清左衛門の家臣、小野氏、北垣氏が下笠を管理していた。
揖斐郡池田町沓井にも下笠と同じような岡山藩の元代官と住民の関係がある。
下笠には代官石原清左衛門についてきた家臣団も住んだ。江戸時代に武士だった家が、後に地主となった家も多い。

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大野は笠郷の中でも貧しい部落だった。昔から学問に力を入れていなかったので部落の大きさの割りに偉人が出ていない。
養老線(大垣桑名線、現在の国道258号線のこと)沿いに住む人は皆子供を中学に行かせていた。
団地も建ち、大野の人口が増えて戸数が倍になった。地域の寺の門徒になるかならないかは自由だが、村の行事には参加してもらっている。
昔は11月になると寺の報恩講の仏花を立てる材料となる松の枝を取りに行った。
昭和の始めの頃、大人の楽しみは今の様に旅行とか、皆との外食も無く、お祭りとか学校の運動会程度だった。当時の子供たちのおやつは、田んぼや畑で育った物や川で採れた物だった。例えば、サツマイモ・そら豆・大豆・柿・イチジク・菱の実など。
遊びは、男の子は、村内の小川で小魚獲りをしたり、夏になると、牧田川で泳いだり、シジミ採りをした。他には川で平泳ぎ・背泳ぎ・水潜り、または川の中に物を投げて拾って来る競技をした。
女の子は弟や妹の子守をやらされ、おはじき・お手玉遊びをしていた。

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下笠は比較的豊かだったので文人が多い。
戦前は教員の給与がよかったが、戦後は給与も下がり、農地改革で土地も失ってしまった。
下笠では浄誓寺を東お寺、浄雲寺を西お寺と呼んでいる。構(かまえ)からも人が移動して来ていると思う。
西では殆どの名字が西脇姓である。野崎では小野、林、和田は小野、中島は西脇が多い、と地区によって固まっている。それに対して東は、中島、佐久間、八木、吉田、日比、佐竹、高木、佐藤、松永、細川、七里など、姓がばらばらである。多くても佐竹家4軒、松永家4軒、吉田2軒、八木2軒である。代官の石原氏が複数の家臣団を連れてきたからかと類推している。
下笠に中世から江戸期まで栄えた市場があった。
三つ屋は街道筋にあたる為、色々な人との交流があった。
三つ屋の社務所に古文書があるのではないかと思う。
江戸時代から続く五人組に代わる制度として昭和15年に隣組(隣保班=りんぽはん)が作られた。
下笠には面白い地名が多い。西江下(にしえげ)、構(かまえ)、懐(ふところ)など。野崎は和田の野の先だからか野崎と名付けられたのではないかと思う。和田の地主の小作が集まっていた地域である。
下笠の懐と構の西側に上市場、下市場という字名がある。この辺りは昔の市場跡らしい。
懐と構の辺りには室町時代の土器がたくさん落ちていて、昔からこの辺りに人が住んでいたことは間違いなさそうだ。

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