下笠は比較的豊かだったので文人が多い。
戦前は教員の給与がよかったが、戦後は給与も下がり、農地改革で土地も失ってしまった。
下笠では浄誓寺を東お寺、浄雲寺を西お寺と呼んでいる。構(かまえ)からも人が移動して来ていると思う。
西では殆どの名字が西脇姓である。野崎では小野、林、和田は小野、中島は西脇が多い、と地区によって固まっている。それに対して東は、中島、佐久間、八木、吉田、日比、佐竹、高木、佐藤、松永、細川、七里など、姓がばらばらである。多くても佐竹家4軒、松永家4軒、吉田2軒、八木2軒である。代官の石原氏が複数の家臣団を連れてきたからかと類推している。
下笠に中世から江戸期まで栄えた市場があった。
三つ屋は街道筋にあたる為、色々な人との交流があった。
三つ屋の社務所に古文書があるのではないかと思う。
江戸時代から続く五人組に代わる制度として昭和15年に隣組(隣保班=りんぽはん)が作られた。
下笠には面白い地名が多い。西江下(にしえげ)、構(かまえ)、懐(ふところ)など。野崎は和田の野の先だからか野崎と名付けられたのではないかと思う。和田の地主の小作が集まっていた地域である。
下笠の懐と構の西側に上市場、下市場という字名がある。この辺りは昔の市場跡らしい。
懐と構の辺りには室町時代の土器がたくさん落ちていて、昔からこの辺りに人が住んでいたことは間違いなさそうだ。

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表示位置は浄誓寺を示している。