高田の元町の神社には社が二つあり、向かって右側の大きいお社が伊勢神宮を、左側のお社には秋葉神社をお祀りしている。これらのお社は元町の30軒余りで管理している。神社がいつごろから祀られているかははっきりとしない。
20年に一度遷宮を行っており、昭和54年が遷宮の年に当たっていたので社を建て替えた。よって少なくとも昭和34年にはすでにあったと考えられる。昭和43年には玉垣を作った。近年は資金不足から遷宮を行えていない。常夜燈も隣接して建てられているが、いつ頃からあるのかは分からない。少なくとも神社が建てられる前からある。
元町の篠墳(ささつか)神社は現在元町が世話をしているという人と、元町と篠墳神社は関係ないという人がいる。

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田代神社は、 慶長 6年(1601)12月26日に、本町字古宮から現在地の田代町257-2に水害を避けて遷座した。それに続いて住民も全体的に水の付かない所に移動してきたと田代神社誌にある。一説によれば住民の移動には、当時の地主階級の働きが大きかったともいわれる。田代神社の由緒、歴史等は「田代神社誌(昭和62年大橋正廣氏編纂)」に詳しい。同誌には神社の古宮跡地の写真があり、その跡地には石碑が建てられたが、現在は残っていない。いつ頃石碑が無くなったのかは不明である。石碑は高田駅南の、近鉄の土地に建っていたので駅舎改築時に処分してしまったのではないかと思う。
現在は田代神社には加茂神社、春日神社、熊野神社、諏訪神社、八幡神社、白髭神社、御鍬神社の七社が本殿に祀られている。境内神社は神明神社、稲荷神社、金刀比羅(ことひら)神社である。
元々は神明神社が祀られていた所に田代神社が移転した。昭和57年に稲荷神社と金刀比羅神社が島田から高田に移されたが、理由は住民が自分たちでお守りをするのが難しくなったためと推測される。稲荷神社は登記を別扱いでしており、鳥居も別に残してある。
慶長元年(1596)に田代神社の別当寺として大善院が創建された。院は途中、寿命院(じゅみょういん)と名を改め(時期は不明)、元禄5年(1692)寿量院(じゅりょういん)と改称された。神仏習合により寿量院に安置されていた薬師如来と天照大神に田代神社の神官が祝詞を奏上し、寿量院主僧がお経をあげていたが、やがて廃仏毀釈により、仏像・経巻・仏具等は不破郡宮代村の大慈寺に納め、薬師如来は即心寺へ移された。
寿量院は275年続いた後、明治初期に廃寺となった。
明治22年(1889)頃、田代神社の社務所を高田町役場に庁舎として貸していた。
明治22年(1889)頃まで島田警察署が田代神社の敷地内にあった。
町の重要文化財である算額について、5問中1問は正確な解答が得られていない。
田代神社には元禄時代(1688‐1703)の絵図がある。
田代神社の年中行事は以下の通りである。
1月1日歳旦祭(さいたんさい)、1月15日左義長、2月11日紀元祭、祈年祭、4月1日稲荷神社と金刀比羅神社の例祭、6月30日大祓(おおはらえ)、8月20日御鍬神社例祭、9月秋分の日の前日試楽(しがく)と田代神社御遷宮記念祭、9月秋分の日例祭、10月1日神明神社例祭、11月15日前後の日曜日七五三祭、11月23日新嘗祭(しんじょうさい)、12月上旬新宮大麻並びに田代大神神符頒布始祭、12月中・下旬の日曜日門松立て奉仕、12月31日大祓。

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沢田の下町、上町をマチ、山手の本郷をマチマチと言った。昭和10年代は店が多く、自転車屋、旅館、雑貨屋、塩屋、菓子屋、家畜商などがあった。また、法事や葬式の請負もあったので、高田まで行かなくてもほとんどの用は沢田内で間に合った。旅館には北陸へ行く旅人や行商人が多く泊まった。五井、池田屋などの旅館もあった。沢田は大きくはないが、宿場であった。
日比家が代々の庄屋筋だった。江戸時代には5~6町の土地を持っていた。江戸中期から続く家柄で、選挙に出た人もいる。
彦根藩と沢田の庄屋、日比貞三郎(ていさぶろう)の関係は沢田の日比家文書で確認できる。
沢田のA氏は沢田尋常小学校に高等2年まで通った。沢田、桜井、本郷、五日市から200人の子供が通い、8学級あった。1学級25,6人。廃校になったあとは交番ができた。
沢田では昭和42年の土地改良で道が広くなり、世の中の様子が一変した。昔の道は幅2mくらいだった。車は無かったが、リヤカーで道具を運搬した。昭和7,8年頃は道で遊んだ。丸飛び、幅跳び、徒競走など。藁の先に石をつけて飛ばしたり、竹を鉄砲に、杉の実を弾にした杉鉄砲で遊んだ。
子供の頃は十銭もあれば色んなお菓子が買えた。学校の積み立ての為に一円銀貨を持たせてもらったことがあった。伊勢道を、弁当箱と呼んでいたバスが往来していた。
沢田の地元の通称として、段原「だんばら」と呼ばれている地域がある。
沢田には、吉谷(よしだに)・堂谷(どうだに)・宮谷(みやだに)と3つ谷が流れている。宮谷は久々美雄彦神社の裏に水源がある為、宮谷と呼ばれているのでないかと思う。
沢田は九里半街道沿いのため、昔は民宿や飯屋などがあり、栄えていた。
大正年間の沢田の地番、人数に関する日比家の資料を現在の沢田の家の並びと比べてみると、大正時代からあまり変わっていないことが分かる。
沢田上町(かみまち)集会所は、上町の山側ほぼ中央にあるにも関わらず地番が1番になっており、そこから東へ2番、3番となっている。一方、集会所の向いは道路1本隔てただけで地番600番代、集会所の西隣は1000番代となっており、興味深い。地番が付けられた経緯が不明であるが、元から住んでいた所から番号が振られているのかと推測している。
江戸時代より沢田は天領だったため、他の尾張藩領、大垣藩領などに比べると権力を持っていたが、それでも近隣の村との水争いはあった。
牧田川用水に関する正徳5年(1715)の訴訟書が日比家文書にある。それによると、橋爪・宇田・中村・栗原・吉田村との対立だった。
沢田の本郷では平成17年頃までは2人ずつ順番に伊勢参りに行っていた。内宮、外宮にお参りした。下町では伊勢参りはしていない。
沢田の吉谷林道は平成元年に通った。沢田の山は山林組合が所有し、管理している。
沢田と桜井の間で番水制があった。
沢田用水の取入口樋管の真向かいに乙坂用水の取入口がある。

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沢田では赤坂まで荷車を引いて石灰屋へ石灰を買いに行っていた。石灰は酸性化した土壌の中和のため田に撒いたが、背中に背負って作業をしている内に雨が降ってきて石灰が熱を発して熱くなったことを覚えている。
鉤状の道具で稲と稲の間の雑草を引き抜いていく垣内(かぎうち)、駒(ごま)と言われる筒状の道具を回転させることで、稲と稲の間の雑草を引き抜いていく駒回しなど、人力で田の雑草を取る作業が大変だった上に、マムシも出た。
芝刈り、割木集め、百姓、小作などをしていた。昭和7、8年頃の年貢は6俵取れたら4俵を納め、残りの2俵が自分達の分となった。
沢田の集落の27,8軒中の3分の1の家で蚕を飼っていた。9月頃が一番忙しく、その頃は人夫が雇われた。村は農家がほとんどだった。割地から木を切り出して、家まで引っ張って来るのが大変だった。また、枯木を三束くらい背板(せた)で背負って家まで運んだり、小学校の当番ではストーブで焚きつけるために割木を束にして持って行った。

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白石村あたりは田中一族が半数を占めていた。藤塚一族は山から下りてきて養老村に入り、一時期20軒程あった。現大垣市上石津町打上(うちあげ)の多良の里山から山番の為に山越えをして養老に下りてきていたが、往来が大変なので仮宿を作ったのが始まりである。藤塚代蔵(ふじつか だいぞう)氏が中心人物であった。藤塚氏の系図の一部は存徳寺にある。

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