沢田の下町、上町をマチ、山手の本郷をマチマチと言った。昭和10年代は店が多く、自転車屋、旅館、雑貨屋、塩屋、菓子屋、家畜商などがあった。また、法事や葬式の請負もあったので、高田まで行かなくてもほとんどの用は沢田内で間に合った。旅館には北陸へ行く旅人や行商人が多く泊まった。五井、池田屋などの旅館もあった。沢田は大きくはないが、宿場であった。
日比家が代々の庄屋筋だった。江戸時代には5~6町の土地を持っていた。江戸中期から続く家柄で、選挙に出た人もいる。
彦根藩と沢田の庄屋、日比貞三郎(ていさぶろう)の関係は沢田の日比家文書で確認できる。
沢田のA氏は沢田尋常小学校に高等2年まで通った。沢田、桜井、本郷、五日市から200人の子供が通い、8学級あった。1学級25,6人。廃校になったあとは交番ができた。
沢田では昭和42年の土地改良で道が広くなり、世の中の様子が一変した。昔の道は幅2mくらいだった。車は無かったが、リヤカーで道具を運搬した。昭和7,8年頃は道で遊んだ。丸飛び、幅跳び、徒競走など。藁の先に石をつけて飛ばしたり、竹を鉄砲に、杉の実を弾にした杉鉄砲で遊んだ。
子供の頃は十銭もあれば色んなお菓子が買えた。学校の積み立ての為に一円銀貨を持たせてもらったことがあった。伊勢道を、弁当箱と呼んでいたバスが往来していた。
沢田の地元の通称として、段原「だんばら」と呼ばれている地域がある。
沢田には、吉谷(よしだに)・堂谷(どうだに)・宮谷(みやだに)と3つ谷が流れている。宮谷は久々美雄彦神社の裏に水源がある為、宮谷と呼ばれているのでないかと思う。
沢田は九里半街道沿いのため、昔は民宿や飯屋などがあり、栄えていた。
大正年間の沢田の地番、人数に関する日比家の資料を現在の沢田の家の並びと比べてみると、大正時代からあまり変わっていないことが分かる。
沢田上町(かみまち)集会所は、上町の山側ほぼ中央にあるにも関わらず地番が1番になっており、そこから東へ2番、3番となっている。一方、集会所の向いは道路1本隔てただけで地番600番代、集会所の西隣は1000番代となっており、興味深い。地番が付けられた経緯が不明であるが、元から住んでいた所から番号が振られているのかと推測している。
江戸時代より沢田は天領だったため、他の尾張藩領、大垣藩領などに比べると権力を持っていたが、それでも近隣の村との水争いはあった。
牧田川用水に関する正徳5年(1715)の訴訟書が日比家文書にある。それによると、橋爪・宇田・中村・栗原・吉田村との対立だった。
沢田の本郷では平成17年頃までは2人ずつ順番に伊勢参りに行っていた。内宮、外宮にお参りした。下町では伊勢参りはしていない。
沢田の吉谷林道は平成元年に通った。沢田の山は山林組合が所有し、管理している。
沢田と桜井の間で番水制があった。
沢田用水の取入口樋管の真向かいに乙坂用水の取入口がある。
日比達夫氏=沢田村庄屋の家系。日比家文書多数有り。
表示位置は五日市青少年育成センターを示している。