養老町産業文化会館の県道側(県道214号線・養老垂井線)の交差点の中央付近に以前、燈明が建っていた。現在燈明は県道建設に伴い高田西町の交差点のところに移設された。また、同場所には喰違堤の石碑も建てられている。
西町では8月の最終週の日曜日に燈明台祭りを行う。
現在の押越3-13あたりに喰違堤(くいちがいてい)と言われる牧田川の堤防があった。高畑村の方から正面に牧田川の流れが当たるように設計されていて、そこから東の方に大きく湾曲していた。今の景陽寺の辺りでも水の当たる勢いが強いため、堤防が切れることもあった。一方、喰違堤の高さを超えるような水位になると金草川に流していたので、喰違堤から西の方で堤防が切れることは少なかった。
昔喰違堤付近の堤防が決壊したようである。元町の付近は水につかることはない。
普段は10~15cm程度の丸みを帯びた栗石(ぐりいし)と呼ばれる川石を盛っておいて、喰違堤が切れそうになったら栗石を取って金草川に水を流す仕組みだった。
寛保時代(1742-1744)の史料や元禄初年(1688)頃の喰違堤の史料がA氏が所有される資料の中で一番古い。
喰違堤に関する絵図は2枚あり、そのうち1枚は「島田村河原論裁許の事」という古文書で、町指定文化財であり、養老町が所蔵している。その控えをA氏が所有しており、2枚とも同じ年代に作成されたと思われるが詳細年月は不明である。
A氏所有の絵図には高田の東側、尻無し堤の辺りを中心に書かれている。町指定文化財の方は総合体育館の所にある高田の三昧に関する争いの記述と共に、喰違堤についても詳しく描かれている。特に多芸村多芸地区字南郷、字中屋、付近が詳しく書かれている。栗石のことについては元禄六年(1693)の「川除争論」に書かれている。喰違堤に関する争いや、喰違堤の実効などの史料は全くない。
西町の囃子は、半田、羽島、長浜等の囃子が伝わっているとは言われているが、詳細は不明である。
西町の囃子笛は草笛の類で、以前は自作していた。山崎氏から譲り受けた、1800年頃から使用されている笛をA氏が所有されている。その笛を手本に熱田神宮の楽人も出入りする楽器屋で新たに10本制作してもらった。現在はそのうち5本しか残っていない。
囃子は祭りの前の10日間ほど練習を行う。昔は若者もきちんと正座をして自ら進んで覚えたが、最近の人ではそうはいかない。囃子のメロディーも簡略化され、笛の運指が簡単になるように変わってきている。
西町の氏子総代は選挙で決められ、任期は3年である。祭事委員が15名選出される。内委員長が1名、理事が2名、会計が1名である。祭事委員長が選挙を取り仕切り、委員以外から氏子総代を選出する。昔は氏子総代は襲名制だったが、現在はあまり世襲しない。氏子総代は車山の巡行等にはあまり関わらず、神事の対応にあたる。
祭りの間は、御神灯を出して家の通り側に幕を張ったが、現在幕を張る家は半分もなく、例えば神様が御旅をして家の前を通られる時は家から出てきて頭を下げるなどのしきたりも薄れている。30~40年程前(2011年現在)には高田に転居してきたが祭りの対応が大変でまた引っ越した人もいる。
3車山間での意見の行き違いや衝突が多かったため、円滑に祭りを進められるように、車山の巡行時間や奉芸の時間など3車山間で打合せがされたものがマニュアル化された。
東・中町は個々の家からではなく権力のある家が祭りに寄進を行っていた。
津田家、中村家、佐竹家、田村家、山崎家が愛宕神社や祭りに対して多大な援助を行ってきた。
大正以前は地主や庄屋が高田祭りの費用を捻出していたと思うが、それ以降は町内で割当して負担している。各戸の納税額が開示されていた頃は、家の間口の広さと納税額の割合で負担額が決まっていた。現在は10~15人いる祭事委員は12000~15000円、その他の氏子は千円~数千円を負担する。西町は昔は愛宕西と愛宕東の2町内に分かれていた。愛宕西から5人、愛宕東から7人役員を選出していたが、戸数割りに合わないため2町内一括でまとめて15人役員を選出するようになった。最初西町の祭事委員は8~10人だったが、徴収金額を増やす為に祭事委員も増員した。決まった金額でなく志で多く負担して下さる方もいる。
柏渕家の縁により、下河原の車山は愛知県清須市から買った。文書等は残っていないが、柏渕家が費用を出していたと思われる。浴衣3枚の衣装の保管、維持や休憩所の提供も柏渕家が行っていた。
西町車山の台車は長浜のものである。長浜の大工が高田に来て台車を作った。西町の後に、中町と東町が名古屋から車山を購入し、その後下河原が車山を作っ た。車山を購入する際に、西町が下河原、中町と東町に基金を出した。
火事で3町内全ての山車が燃えてしまった時に、西町は長い時間をかけて今の山車を再建したが、下河原は高田祭りのために長良もしくは名古屋から山車を探して買ってきた。その世話をしたのが地主である。
高田祭りのときに西町の車山が商店街の西端を直進せずやや南の道に入るのは、祭りの当初通っていた道 を今も進んでいくためである。
現在の柏渕家の建物は享和3年(1803)に急ごしらえで車山会所を兼ねて建てられた。その後、40年ほどしてからきちんと建て直した。現在は古くなってきたため天井に目隠しを兼ねてベニヤ板を張ってあるが、一部吹き抜けのままにして、2階部分に高田祭りの道具他の資料を保存してある。また蔵の中には寄り合いで使った什器などがあり、戦前までは出し入れしていたがその後出した記憶がない。
各家の前に張る幕を新しくする際に小さく、他の家のように色のついたものに変えようとしたが「古式に則って、白にするべきでは」と反対された。白地に家紋など、家格によっても幕の様式には決まりがある。