高田小学校の前身である藍田(らんでん)小学校は養老町内でも比較的早く開校した。

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高田は名古屋と舟運によって商取引等の関わりが強かった為に車山も名古屋から購入された。
西町車山の彫師立川専四郎も名古屋経由で諏訪から来たのであろうと思う。
山口医院(押越693-1)の西の方に高田の市場があった。金草川の船着場の最終点であり、付近に燈明もある。
髙喜屋(たがきや、金属材料店、高田3980-2)南の金刀比羅神燈台の辺りに舟が着いた。石畑から大垣城へ材木や年貢を納めるのに金草川を下って杭瀬川から大垣へ渡った。伊勢参りへも高田湊から舟に乗って桑名まで行き、更に大きな船に乗り換えた。隣には馬頭観音(下高田)がある。

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高田を抜ける県道(県道214号線・養老垂井線)は景陽寺から高田西町の信号までほぼ直線だが、道ができた当初はまっすぐ進む道ではなく吉田ふとん店(高田196)の方に曲がっていた。
愛宕神社の裏手に金井清吉氏宅(高田182)があるが、その斜めに入った道から景陽寺の脇を抜け堤防に向かって真っすぐ抜ける旧道があった。愛宕神社ができたこともあってその旧道は無くなったが、景陽寺の西南の角が切り取られていて真っすぐでないのは、そのためと考えられる。
県道96号線の大垣養老公園線は現在よりも東に通っていた。

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大和町、横町、城前町の通りが入り組んでいるのは花柳界であった為、身を隠せるような作りになっている。かつて城前町の辺りに高田城があった。千秋家は、高田城と関わりがあるという人もいる。
高田185-1南の道は細い道だが、口ヶ島から五日市への往環道だった。原泉堂(押越881)、山口医院や吉田医院もその道に沿って建っていた。
高田商店街の路地の角にT字路が多いのは、士分統治の名残ではないかという人もいるが、商店街の辺りが形成された時期は武士が実戦を行っていた頃よりもはるか後世であることを考えると時代が合わないであろう。
高田の町は交通の要所であった為、多くの著名人が宿泊していった。
元禄年代(1688-1703)の絵図をみると今の常磐町の出口あたりから愛宕神社までびっしりと家が並んでいて、愛宕神社が勧請されてから90年間ほどで家並みが形成されていることが分かる。
また2011年現在、西町は表裏合せて50軒ほどだが、その絵図では70軒位書かれており、今よりも更に賑やかだったと推測される。
高田は地理的にもこのあたりの中心であったため、大垣共立銀行や蘇原(そはら)銀行、高田郵便局、高田農協、石原医院、木村医院、山口医院などが密集していた。
郡役所が高田に置かれていた明治から大正にかけては高田の最盛期であり、花柳界も栄え、高田芸妓就労斡旋所や芸者の置屋があった。その為、商店街には呉服屋が最も多かった。
昭和19年からは現在の老人福祉センター(高田79-2)の所に南濃地方事務所が置かれていた。その前の養老郡役所や南濃地方事務所が置かれていた頃までは、高田は養老町の中心的役割を果たしていたが、南濃地方事務所が移転してから高田の町は徐々に衰退していった。
産業文化会館(高田3879-4)のあたりに、昭和初年頃より、税務署や保健所ができた。
高田149の場所に蘇原(そはら)銀行があった。
元町は昔、色町であったが、特に昭和30年代頃は華やかだった。元町には現在でも三味線など芸事を習う人が何人かいる。高田元町324から3件南の、現在は駐車場になっている所に芸妓さんの歌舞練場があった。
高田307-5のあたりに鍛冶屋や粉屋などがあった。
吉田医院はもと呉服屋や雑貨屋をやっていて、明治時代になって医者の免許を取得して開業した。それまで高田には山口医院しかなかった。現・山口内科外科の先祖、山口玄樹(やまぐち げんじゅ)氏は尾張藩の御殿医(ごてんい)だった。
高田167のお宅が昭和中頃まで、個人で高田図書館をされていたらしい。その後方円堂書店を開いた。
高田の町でも本家が島田にあるところが何軒かある。
西町と中町では、2~3代前から続いている家は7軒程である。東町では旧家はほとんどない。
元禄時代(1688-1703)には御大尽と呼ばれる人たちが高田の町の勢力を握っていた。高田町の形成には屋号を持つ商人と、名字を許された中堅クラスの地主である御大尽達が大きく関わっている。
江戸時代(1603-1868)に御大尽から景陽寺に寄進されたものは特にないが、明治時代(1868-1912)に寄進されたものはある。御大尽十人衆というのがあり、その中には日比野鶴翁の先祖もいた。通常、名字帯刀を許されているのであれば、庄屋と書かれているはずだが、庄屋と書かれている過去帳は無い。
高田では、地主、僧、神官、医者、商人等が文学や俳諧、芸能をたしなんだ。
高田の本郷地内には井戸跡が多く残っていたが、土地改良により埋められた。
昔は、今の高田中学校の武道館のあたりに、保健所と養老署があった。警察署はその後山口記念館の辺りに移転した。
高田の山口内科の北側に公設市場(常盤町47-2)があった。昭和30年代前半の頃、池辺の人も農作物を公設市場まで運んだ。子どもたちは、自転車に積んで荷物を運ぶ親の手伝いをした。

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高田の地名の由来ははっきりとしない。奈良時代には高田という地名があったとか、地方豪族であった高田首新家(たかたのおびと・にいのみ) に由来するという説がある。ただ、高田首がこの辺りに住んだという記録はない。
押越と高田の境界は江戸時代から変わっていない。
江戸時代の高田の町の東端は現在の老人福祉センター(高田79-2)の辺りである。高田商店街沿いで江戸時代から現在まで続く家が2軒だけ残っていると言われている。
堤防が切れることを(水が)乗超すというが、実際に乗越という地名になって残っている所がある。北浦から島田のミズノ養老工場付近である。
景陽寺のそば、高田228のあたりから東側を北浦といい、田代神社の先、玉泉堂の工場の南側辺りをその下ということから下北浦といった。
元町は北浦に含まれ、北浦は昔からの地名、元町という小字は新しい地名である。元町と呼ばれるようになった理由は不明だが元町は高田の最も古い町であるだろうと考えている。

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