1950年代、A氏は子どもが小さい頃、象鼻山によく遊びに行った。草だらけの細い道を走って登った。松茸は、A氏が探してもちっとも見つからなかった。皆が採った後だったのか、場所が違っていたのかもしれない。A氏のおばさんや子どもたちは小さいのを採って来た。象鼻山の松茸は香りが良いが、滅多に採れなかった。山頂でおにぎりを食べた。見晴らしが良かったのを覚えている。
赤坂の金生山(きんしょうざん)にも高田中学校の先生方とよく行った。上に茶店があり、おでんを食べて一杯飲んだ。見晴らしが良かったが、あの山も石灰岩を採取するために削り取られ、だんだん小さくなった。上にあった松の木もなくなり、さみしい限りである。
昭和24年(1949)に養老へ来た時にびっくりしたのは、トラコーマ(伝染性の結膜炎)患者が非常に多かったことである。名古屋ではトラコーマはなく、大学に一人患者がいると珍しかった。また、養老では斜視、弱視、視力の悪い子が多かった。大学でその話をしたら、驚かれ、論文を書くように言われたが、皆を治せば良いからと書かなかった。
あるおじいちゃんがトラコーマになった時は、抗生物質など何も薬がなかったので、失明してしまった。
養老の校長先生も良い人たちで、押し掛け女房ならぬ押し掛け校医となって、強引に学校へ行って検査をした。
半田登喜代氏は進駐軍と仲が良かったので、名古屋へ行っては、子どもたちの治療の為に日本には無い薬を無料で貰った。それを各学校に配ることを何年か続けた。
昭和28年(1953)、小畑小学校に赴任してきた新米の校長先生・田中育次(たなか いくじ)氏が初めて養護教諭を置いた。その後、徐々に各学校にも養護教諭が配置された。内科の校医は岐阜県から手当が出たが、眼科医は予算が出ず、全部学校の持ち出しで行っていた。
また、多芸小学校校長の藤塚氏は、目に重い疾患を持つ生徒を、おそらく親に相談なしで強引に連れてきた。バスもないので、歩いて来たのであろうか。重症であったため、手術をしたが親は文句を言わなかった。
半田氏はオートバイの後ろやトラックの後ろに乗って、道具を担いで時小学校や海津郡の小学校まで行った。
現在は環境も清潔になり、トラコーマ患者は探してもいない。昔は皆がトラコーマで、年寄りは逆まつ毛で突くので、黒眼が真白になり失明も多かった。タオルを共有するなど不衛生な状態であったので、伝染病であるトラコーマが蔓延したのであろう。毛じらみも多く、頭を洗うように指導した。学校関係では無報酬で治療を行った。
今はパソコンで目が疲れるだけで、伝染する病気はほとんどない。手洗いのあとも、タオルを別々にしている。昔はそのような衛生観念が無かったため、余計に伝染病が多かったのではないだろうか。
養老の人の目の状態が良くなってきたと思ったのは、昭和40年頃からだと思う。
昭和24年、名古屋大学の眼科教室の学生であった半田登喜代氏は、4月に長女出産の予定で、大学を休んでいた。1月は、半田氏のご主人が各務原にいたので、そこで毎日靴下のつぎをするなどしていた。2月に配給のお米を取りに行き、1俵弱を担いで帰る時に破水してしまった。どんどん体がえらくなり、これは危ないということになったが、まだ何も準備をしていなかった。幸い、家のすぐ側に産婆さんがいたので呼びに行った。タライが無かったので、ご主人が自転車で走り回って、小さなタライを探してきた。昔はタライは注文品だったので、始めは「貸せない」と断られたが、「こっちは顔を出しているから」と言ってぶんどってきたそうである。
ちょうどその頃、養老町で眼科医を探していたが、適任の医者がおらず、出産後の半田氏に名古屋大学の教授から声がかかった。半田氏は、養老は滝の水を汲んでもお酒になると言うので、美味しいであろうから行ってみようかと思い、4月1日から農協の高田診療所(高田369-1番地)(現在の西美濃厚生病院の前身)へ3年の約束でやって来た。場所は城前町の伊勢屋さんの前の一角が診療所であった。3年経ったら、故郷が栃木県なので、ご主人と共に栃木県に帰ろうと思っていた。
この3年の間に、お金が無かったり、半田氏ご自身も病気をしたり、大変であったが仕事は辞めずにいた。3年経ち、皆から開業するように勧められた。皆さんのお世話により、昭和27年(1952)に高田で開業した。昔から高田の地元の人は皆親切だった。病気をした時も、お米は配給で食べ物がなかったが、自転車屋さん、伊勢屋さん、福井さん、お茶屋さんなど、皆が毎日御馳走を持って来てくださった。お布団まで担いで来てくれて、城前町の皆にお世話になった。今でも石畑に住む半田氏と高田の人たちとはお付き合いが続いている。伊勢屋さんはもう3、4代の付き合いになり、魚由(ウオヨシ)さんもおじいちゃんが患者さんとして来てくださったのが縁で、それ以来の付き合いである。
養老に来たときは、汚くてエライ所へ来たと思ったが、人情のある良い所であった。皆にもう少しここで眼科をやって欲しいと頼まれ、若山八百屋店のおじいさんが走り回って島田地区A氏の離れ(高田950番地)を探してくれた。引っ越しなど、何かある時は、B氏やC氏が手伝ってくださった。昔は人手がなかったので、皆の力にすがってどうにかやってきた。
半田眼科の開業当時は、夫婦で病気をしていた。
A氏の家には石の門があり、その奥に離れがあったので、そこを借りて開業した。ダンボールに「半田眼科」(高田城前町)と書いて、石の門に長縄でくくった。看板を作るお金が勿体無かったからであるが、あの頃はダンボールも貴重であった。ダンボールの看板は、雨が降ったらまた変えなければならなかった。
多芸の人たちにも良く助けて貰った。宣伝の仕方など何も分からなかったので、昭和27年(1952)に開業した時、D氏は、わら半紙に半田眼科と書き、役場で印鑑を貰って、養老郡内と海津郡内で貼り紙をしてくれた。5月頃であっただろうか。警察から養老公園の中は貼り紙禁止と言われたが、花見の客がいなくなったら剥がすからと話を付け、桜の木にでも何にでも貼っていた。一日中自転車で走り回り、ボランティアで貼り紙を貼ってくれた。おかげで海津郡に行った人たちから、どこにでも貼ってあると聞いた。
また、後できちんと剥がしに行ってくれた。普通はできないことである。多芸の人たちは心が優しかった。D氏がある時物干し竹を持って来てくれたことがあったが、盗んできたのかと聞くと、盗んではこないが黙って持ってきたと言われたことがある。愛嬌のある子であった。
昭和の中頃には、食べるものがなくて体を壊したこともある。ご主人に毎日お弁当を渡すので、お昼に自分が食べるものがなかった。看護婦たちに「先生、ご飯は?」と聞かれたが、「お腹が空かないから」と言って編み物などをしていた。
夜は、貰った豚の肉の骨を煮出してスープにして栄養を取った。後に高田の日比野医院の院長が往診に来た時に、栄養失調と診断された。それからしばらくして、ご主人が倒れた。
岐阜大学の女医さんにはお世話になった。名古屋大学の教授が学位を取らせてくれるように岐阜大学の教授へ頼んでくれたので、名古屋大学から岐阜大学に移り、戦前から続けていた網膜の論文を続けた。
論文のための実験に必要なウサギは、近所の人がどこからか毎日、ウサギの箱が空いた分だけ追加のウサギを持って来てくれた。
子どもたちは毎日ウサギにおからやキャベツを裏の小屋へ持ってきた。近所の人は、大学でお金がかかるのではということまで心配してくれた。養老だったから出来たことで、他では出来なかったであろう。子どもたちが来ない時は現在バローがある辺りにあった豆腐屋さんからおからを分けて貰ったり、若山八百屋店さんから野菜の屑を分けて貰った。皆タダであった。
その時の論文や資料などは、整理してしまった。
養老小学校を良くするために、衛生面では各階に手洗いをつけた。また、暗いと子どもの姿勢が悪くなるため、照明を配慮し、窓際と廊下側で明るさが変わらないようにした。
半田登喜代氏は、どこの学校へ行ってもトイレを見るので「便所会長」と呼ばれていた。養老小学校のトイレは、ぼっとん便所だったので、子どもたちは「学校のトイレ怖いもん」とぶるぶる震えて、学校のトイレには行かずに、家に帰ってきた。当時は水洗便所ではなかったので、それも変えた。トイレは、子どもたちに掃除をさせていたが、どうしても手抜かりがあるので、一週間に一度は親が掃除をするように指導した。トイレは衛生面で一番大事なところである。昔のトイレは、汚く、使用後に手も洗わなかった。
当時の校舎は2階以上にはほとんど洗面台がなかったので、床に穴をあけて水道管を通し、全校生徒がこまめに石鹸水で手を洗うように指導した。
最近は、学校に冷暖房がつくようになったが子供の健康にはかえって悪いと思う。夏は汗をかく方が良いのではないか。ただし冬のストーブは良いであろう。