昭和24年(1949)に養老へ来た時にびっくりしたのは、トラコーマ(伝染性の結膜炎)患者が非常に多かったことである。名古屋ではトラコーマはなく、大学に一人患者がいると珍しかった。また、養老では斜視、弱視、視力の悪い子が多かった。大学でその話をしたら、驚かれ、論文を書くように言われたが、皆を治せば良いからと書かなかった。
あるおじいちゃんがトラコーマになった時は、抗生物質など何も薬がなかったので、失明してしまった。
養老の校長先生も良い人たちで、押し掛け女房ならぬ押し掛け校医となって、強引に学校へ行って検査をした。
半田登喜代氏は進駐軍と仲が良かったので、名古屋へ行っては、子どもたちの治療の為に日本には無い薬を無料で貰った。それを各学校に配ることを何年か続けた。
昭和28年(1953)、小畑小学校に赴任してきた新米の校長先生・田中育次(たなか いくじ)氏が初めて養護教諭を置いた。その後、徐々に各学校にも養護教諭が配置された。内科の校医は岐阜県から手当が出たが、眼科医は予算が出ず、全部学校の持ち出しで行っていた。
また、多芸小学校校長の藤塚氏は、目に重い疾患を持つ生徒を、おそらく親に相談なしで強引に連れてきた。バスもないので、歩いて来たのであろうか。重症であったため、手術をしたが親は文句を言わなかった。
半田氏はオートバイの後ろやトラックの後ろに乗って、道具を担いで時小学校や海津郡の小学校まで行った。
現在は環境も清潔になり、トラコーマ患者は探してもいない。昔は皆がトラコーマで、年寄りは逆まつ毛で突くので、黒眼が真白になり失明も多かった。タオルを共有するなど不衛生な状態であったので、伝染病であるトラコーマが蔓延したのであろう。毛じらみも多く、頭を洗うように指導した。学校関係では無報酬で治療を行った。
今はパソコンで目が疲れるだけで、伝染する病気はほとんどない。手洗いのあとも、タオルを別々にしている。昔はそのような衛生観念が無かったため、余計に伝染病が多かったのではないだろうか。
養老の人の目の状態が良くなってきたと思ったのは、昭和40年頃からだと思う。

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表示位置は半田眼科を示している。