色目川の水利権は大坪より上流も大坪が全て所有していた。室原は山田用水を利用していた。江戸時代以降、色目川の圦(いり)の入り口、大坪地区字田中に水車小屋があり、村人はそこで米を搗(つ)いていた。
大坪の色目川の堤防の桜は、大橋武夫氏の父(治一(じいち)氏)が植えた。
色目川では室町時代(1338-1573 )の頃に瀬替えという、川の付替え工事があった。
室原から大坪へ排水の迷惑料が入ってきていた。
日吉地区字豊の養老町水道の水源地に河間があり、その水が色目川に流入するため大坪は用水の確保には苦労しなかった。
蛇持の用水と大坪の排水の圦(いり)は同じ所にある。また、他にも圦は数箇所にあった。
大坪若宮神社を境に、西側の大坪集落側が土地が高く、神社より東側が低くなっている。
除(よげ)が大坪内でも3箇所ある。
大坪若宮神社の北西角に土地改良時の頃の昭和38年9月の定杭がある。
大坪の地名は奈良時代の条里制の名残である。養老町の南端に小坪という地名があり、大坪の地名の由来は、小坪よりも土地が広かったことからついた。現在の大坪団地は、元々余除地(よじょち)として、年貢を免除されていた土地であった。
大坪は天領のため里道は比較的広く、巾6尺(約2.3m)あった。農作物の往来に多く使われた。小さい道で巾3尺(約1m)であった。
色目川の水位が上昇したことで氾濫が多くなったため、標高の高い、字堀ノ内のあたりに大坪の集落全体が移動した。
昔の大坪村と移動した現在の大坪村では高低差が1mほどあり、現在の方が高い。
大坪村は天領であったために段海湊から笠松代官所へ行って年貢米を納めた。
北蛇持の了覚寺は長録元年(1457年)に建立された。初代の住職は専光坊という名で、蓮如上人のお供をして歩いていた。開基から浄土真宗のお寺として開かれ、山号は天保年間(1830‐1843)になってから付けられた。慶応年間(1865~1868)に本堂を再建した。
了覚寺は明治24年(1891)に濃尾震災で全壊した。
他所門徒は角田(すまだ)、垂井町宮代に少数、室原に佐竹家1軒がある。御代本には教如上人の裏書がある。
報恩講は昔は3昼夜披(ひら)かれたが、今は1~2昼夜に減っている。蛇持経塚の池に伝わる大蛇伝説と了覚寺は関係ない。
かつて1年の間に4回の水害が起こった年があり、稗も取れずに食物が無くなった。それでも了覚寺が取り潰しになることなく存続できたのは、自分達が食べられなくても寺に食べ物を持ってきてくれた農民の力による。お斎には一般庶民でもお膳を使った。
歴代住職の中には北陸まで2~3ヶ月かけて説教をしに行っていた者もいる。
相焼香(あいじょうこう)のことを了覚寺では相同志(あいどうし)という。明治頃からの制度で、寺同士の組合であり、お寺での葬祭は互いに行う。
片門徒、男門徒、女門徒という制度があり、男性が移住してきた場合は移住先の寺の門徒になり、女性がお嫁に行くときは居住元のお寺から本人であることを示す「嫁送りの一札」を出していた。了覚寺にも記録があったが現在の家を建てるときに処分した。これらの記録は水を避ける為に、竹筒に入れて庫裏に吊るしていた。
蛇持は尾張藩領であり、尾張藩から人の出入りについて定期的に調べに来ていた。
飯田の高木一統は元、杉という姓だった。杉は上杉家の系統で、上杉家が敗れて「上」の字を外した。飯田の墓地の正面左側に杉家の墓がある。
飯田には、築城年代不明の城があった。
飯田の墓地の西側に湧水があった。一時期ライ魚が増え、鯰が減ったが、今は両方ともかなり少なくなった。
未来工業㈱養老工場(飯田933-2)の北側の水はきれいで魚がいる。
垣打ち(かきうち) 掠力(かすりき)という農機具を使って草を抜いた。焚物の確保が大変で、欅(けやき)の木の枝を払って得ていた。戦前は松の木の油を絞って、油を売っていた。
川魚専門店の魚新は大正7年、江月で先々代が、近所の人が持ってくる魚をさばいて食べさせたのが始まりである。三神の人から魚を仕入れて、大垣・養老へ自転車で売りに行った。
魚新の佐竹家が所有する田が一町五反くらいあった。人が田へ行くためと牛用に、二艘の船があった。家の周囲に池があって、家の中から釣りができた。昭和前半当時は県知事も魚釣りに来たことがある。
魚の腹の泥をはかせるために生簀(いけす)が必要なので、家の敷地内に井戸が9本掘ってあった。
川や池に棹をさしておくとツボという貝がたくさんついて捕れた。夏には菱の実取りをした。大垣の人が魚新までドジョウを取りに来て、名古屋の市場へ売りに行ったり、三神の人がウナギの稚魚を捕まえて名古屋へ売りに行った。大きいウナギは魚新で裂いて売った。
魚新の先代(昭和30年前後)の頃、ふなやすではドビンやツボなどの貝を売りにきたのを一晩かけてゆで、朝日の昇る前に桑名まで売りに行った。
昔の飯田村の中の結婚式はたいてい魚新で執り行った。お祝い料理として、「ケンチン蒸し」というのがあった。鯛の腹の中に、野菜や豆腐を練っていれて、蒸し焼きにしたものである。
魚新で作る料理に、鮒やモロコの甘露煮、鮒の昆布巻き、鮒みそ、川エビの料理などがある。以前はハエの料理もあった。
また、郷土料理として小さい鮒をみじん切りにして酢につけて柔らかくしたものを酢味噌で食べるドンガネ酢がある。ドンガネは眼鏡の意味で、この料理名のいわれは魚の内蔵を抜いて、身を輪切りにすると眼鏡みたいになるからである。鮎で作るとおいしいがこの辺りにはいないので鮒で作った。
また、鮒の甘露煮のことを炭火で24時間たいたため、24時間だきとも呼んでいた。現在鮒は四国からの養殖を運んでくるが、昔はカゴに卵がついてまっ黄色になるほど鮒がいた。
昭和30年代には川でツボ貝(タニシ)やカラス貝などを獲り、自宅(ふなやす)で食べた。
川に打った杭に綱を張ってドッペというカゴを下げて魚を入れておいた。堤防が低かったので家から降りて行って魚をとりに行った。その頃はふなやすも五三川へ階段で降りて行って同じように魚をとりに行った。ふなやすへは志津や海津市南濃町津屋から魚を売りにきていた。ふなやすの祖父が料理屋を始めるにあたって魚新に相談にきていた。
三神の人で魚新に魚や貝をおろすことで生計を立てている人がいた。役場の人からの聞き伝えによれば、魚新が江月で創業した頃、創業者の妻が店に出入りする子供から大人まで食事を振る舞っていた。現魚新当主のいとこは子供の頃に皆が並んでご飯を食べている風景を見た記憶があるとのことである。
魚新では、土建屋の頼母子講が開かれることがあった。
魚新の佐竹氏の先祖は、茨城県の出身である。関ヶ原の戦いで石田側について関東に帰れなくなり、岐阜に住みついたと聞いた。先祖は江月と飯田に分かれて住んだ。過去帳は水害で流失したが、過去帳が記録される以前から佐竹家は存在していた。
佐藤恭一氏の父親が池と土地を貸してくれるということで、江月から移住した。3町歩全て地元の地主の池であった。