江月には湊はないが土場はあった。そのため、烏江・船附・栗笠の濃州三湊から杭瀬川を通って伊勢湾、桑名、今尾、大垣の舟町湊へと続く水運があり、人物・物資の交流があった。
幕末の頃から舟運が盛んになった。赤坂山の石灰を桑名を経て名古屋へ運んだ。また、桑名や名古屋の物資が杭瀬川を通り大垣へ入って行った。烏江から九里半街道、近江へ抜けるルートや表佐へ出て表佐湊から垂井・関ケ原、北陸へ向けて抜けるルートなど、交通の要所だった。明治8年の記録では1日に約200艘の船が行き来していた。養老橋のすぐ南に段海湊の跡がある。幕府直轄の地だったので、年貢を納めるために湊を持っていた。

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飯田には巾3尺の里道が多い。
大垣街道沿いの為、飯田は人の往来が多い。

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飯田の庄屋佐竹家(飯田143)のはす向かいに薬屋の山城屋があり大きな門があった。その隣には東北大学の青山博士の生家、種油の油屋があった。
青山新一博士は明治時代、養老郡で最初に博士号を取った人物である。

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養老街道の旧道には燈明や地蔵がある。
飯田の養老街道沿いには桶屋やお茶屋など多くの店が並んでいた。また、養老街道は伊藤博文総理大臣も養老に行くために通ったことがある。

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大坪団地は、以前深い池沼だった。
牧田川が決壊すると小畑川、色目川を乗り越して大坪側に水が流れ込む。大正6年(1917)の水入り(牧田川の決壊)で、付近の家屋の2階まで浸水した。大坪の大橋治六(おおはし じろく)氏宅前の色目川堤防の色目橋上で牛の腹の高さまで水が来たのを覚えている。
一時期大坪台に子供神輿があったが今は無い。

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