江月には湊はないが土場はあった。そのため、烏江・船附・栗笠の濃州三湊から杭瀬川を通って伊勢湾、桑名、今尾、大垣の舟町湊へと続く水運があり、人物・物資の交流があった。
幕末の頃から舟運が盛んになった。赤坂山の石灰を桑名を経て名古屋へ運んだ。また、桑名や名古屋の物資が杭瀬川を通り大垣へ入って行った。烏江から九里半街道、近江へ抜けるルートや表佐へ出て表佐湊から垂井・関ケ原、北陸へ向けて抜けるルートなど、交通の要所だった。明治8年の記録では1日に約200艘の船が行き来していた。養老橋のすぐ南に段海湊の跡がある。幕府直轄の地だったので、年貢を納めるために湊を持っていた。

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明治初年代より杭瀬川の舟運は盛んであった。1870年頃は一日に200隻の舟が往来していた。 表示位置は江月の土場を示している。