佐竹民弥(さたけ たみや)は、本名を佐竹義寄(よしより)という。文化6年(1809)、十六村(現大垣市十六町)に生まれた。民弥の生家は農業の傍ら鍬や鎌を作る鍛冶屋であった。民弥はよく家の手伝いをしていたが、ある時小刀を使って煙管に竜の彫り物をした。それを見た父親利兵衛(りへえ)は、将来彫師として身を立てることを願って民弥が12歳の時に高田村(現養老町高田)の彫忠(ほりちゅう)こと早瀬忠兵衛重興(はやせ ちゅうべえ しげおき)に弟子入りさせた。18年間の修行後、彫師佐竹民弥と名乗り、養老町でも様々な作品を残した。
佐竹民弥の嫁は竹中半兵衛の家臣から嫁いでいる。
佐竹民弥は安政4年(1857)頃に養老町上方村の庄屋、大橋浅右衛門氏宅に移り住み、明治10年(1877)4月15日に上方で没した。
五日市の北に、川に挟まれて将棋の先のようになっている地域があり、かつては多芸村高畑将棋頭という地名であった。
昔五日市の辺りは水田はなく、大河原という地名だった。
五日市の名前の由来は、栗笠の船着場に来ていた海産物や、関ヶ原などからの収穫物を売りに、5日ごとに市が立っていたためである。元々は五日市場といっていた。
桑名の一向一揆の時に上石津の人が応援を頼まれ、桑名に向かう道中に石畑のお地蔵を借りて行った。なぜ石畑の地蔵を持って行ったのかは不明である。
船著(ふなちゃく)神社(明徳)の祭神は船着神で、後に大山津見命(おおやまづみのみこと)および素箋鳴尊(すさのおのみこと)を合祀した。境内社に稲荷社、御鍬社、金刀比羅社がある。創建年代は不詳である。
船著神社には曳山が一両あり、普段はばらして保管している。大きさとしては二間四方程度とのことである。牧田の大工が作ったといわれており、制作年は不明であるが、江戸時代以降ではないかと考えている。昔は村中を曳き回していたが、曳山より小さな鳥居が立ったことにより境内から出すことが出来なくなったため、境内の前で組み立てるだけになった。昭和25年頃までは曳山が出されていたが、それ以降は出して組み立てることもなくなってしまった。祭り自体は10月の第2日曜日に今も行っており、横笛の演奏などもある。ただ、横笛の演奏についても廃止の話が出ており、なくなる可能性がある。
曳山の幕は昭和20年当時の神社の関係者の中に土屋輝雄氏の親戚がおり、土屋氏に頼んで描いてもらった。
船著神社の由緒については不明である。氏神社内の山の神と金毘羅さんは昔から境内に祀られている。境内の鳥居の脇に燈明があり、集落の中にはその一か所のみである。