豆馬亭(とうまてい、岐阜県養老公園1282)は養老公園にある老舗旅館の一つである。明治13年(1880)の開業と聞いている。
旅館の名前は寸馬豆人(すんばとうじん)という、馬が一寸程に、人は豆つぶに見えるという展望の良さを表す熟語に由来している。旅館からの眺めが良いことから命名された。
「養老町の文化財」という冊子に、養老町の橋爪から村上雄三(ゆうぞう)氏が養老公園に来て豆馬亭の前身である村上旅館を始めたことが書いてある。また、その冊子には村上雄三氏が描いた養老公園ができて間もない頃の村上旅館の絵が載っている。年配の方の中には今でも村上旅館という人もいる。
豆馬亭には文人墨客や政治家がよく宿泊した。昭和2年(1927)の夏に北原白秋が豆馬亭を訪れた。旅館の玄関に当時の写真が飾ってあり、お客様に見ていただいている。他にも塩谷鵜平(えんやうへい)、大野国比古(おおのくにひこ)などの写真がある。
また、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の書かれた書が多数残っている。竹林が眺められる部屋には碧梧桐の「清風半窓竹(せいふうはんそうのたけ)」と書かれた書が掛けられている。窓を開けると心地よい風が入ってくるという意味であろう。
岐阜県令小崎利準(おざきりじゅん)の真筆の書、「花意竹情」(花のこころに竹の風情の意)がある。
明治時代には豆馬亭から雪をかぶった金崋山や、御嶽山、白山が見えて、それらが中国の山水画を思わせるような風景に見えたそうである。
旅館の2階の部屋から後谷(うらだに)を眺めると柿の木や紅葉が見えるが、それらの木は後から植えたものである。
養老は瓢箪が名物となっており、瓢箪の拓本を取りに養老へ来る方もいた。
豆馬亭の名物料理といえば猪鍋である。豆馬亭の2代目、村上弁二氏のころから猟師をやっていた。3代目の村上圭二氏も弁二氏から鉄砲を習った。猟は4代目まで受け継がれ、3代にわたって続いた。
豆馬亭の建物は一部改築などはされているが、2012年現在でも明治時代のままの部材が残っている。互い違いになって採光・遮光が可能な欄間や自然木の床柱(とこばしら)、長押(なげし)、竹竿天井、葦簾(よしず)天井、窓のガラスなどである。
昔の広間があった南側の建物は以前は3階建てだった。南玄関のある棟が一番古い。棟内には廊下の途中に昔従業員さんが使っていた部屋に続く階段もあり、大変珍しい造りになっている。
千歳楼(せんざいろう、養老町養老1079)は、養老公園内に建つ老舗旅館の一つである。
旅館の建物は少しづつ手を入れているが、各所に昔からの造作がそのまま残っている。
渡り廊下は昔は、下が板張り(スノコ)になっていた。廊下の下が谷になっており、板のすき間から谷水の流れが見えるようになっていた。初夏には蛍が見られた。谷川には昔水車がかけられていた。大正時代に千歳楼を増築するときに渡り廊下の壁に取り壊した水車の輪の部分を半分に切断したものを利用して明かり取りにした。渡り廊下から先は大正時代に増築した部分である。
本当は壁は、玄関の方まで全部弁柄色であったらしい。修理した時に本来の弁柄色はもう再現できないと言われた。弁柄風にしてもらうと、塗りたては元の色に近かったが、乾いてくると赤みがやや強くなった。
松の間は大正末期に松をモチーフに造られた。大正天皇が皇太子の時に宿泊されたお部屋である。昔はご寝所が一段高くなって、上段の間になっていた。昭和に入って現在の場所に部屋が移設された時に一段下げたのではないだろうか。松ぼっくりの釘隠しなど、全て松のデザインである。東側に面しているので、日の出が綺麗な部屋である。谷崎潤一郎さんと佐藤春夫さんは、松の間で一緒に過ごされた。千歳楼の部屋の中でお客さんに好まれる部屋は、袖の間、竹の間、楓の間などである。松の間は常連さんに人気がある。
竹の間は、昭和初期の造りである。竹をモチーフに網代天井、床柱などが竹である。床の間は床框(とこがまち)のない踏込床(ふみこみどこ)といわれる造りになっている。襖の竹の絵は、河合楽器の御曹司、河合五郎太氏が描いたものである。ここの部屋だけ昔から半帖畳である。わざと畳の半分を交互にし、半畳を商売繁盛とかけている。現在は、沖縄畳を使用している。
桜の間は、竹の間と同じ昭和初期に造られた。最後に増築された部屋である。桜の木々が庭園から眺められるので桜の間と命名された。壁は聚楽塗りである。縁側はガラス障子にガラス入りの欄間で、外光を取り入れる工夫がされている。
袖の間は千歳楼の先々代ご主人と親交があり、長期滞在することもあった日本画家の竹内栖鳳(1864~1942)がデザインしたと言われる部屋である。竹内栖鳳筆絹本絵画が飾られている。折上天井(おりあげてんじょう)で、天井高は約3.0mある。欄間、襖絵から鶴の形をした襖の取っ手に至るまで栖鳳の意匠が生かされている。
楓の間は現在では貴重品となった薩摩杉の化粧板貼りが天井に施されている。縁側の欄間にはたて格子に和紙を貼っており、通常の欄間より高い約45cmになっているため、和室全体に外光が取り込まれている。「翠声(かわせみのこえ)」(書者不詳)の書幅が掛けられている。
二階の大広間は昔から変わっていない。明治13年(1880)に作られた部屋なので130年の間そのままである。広間には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と三条実美(さんじょうさねとみ)の書幅、大垣藩家老職であった小原鉄心の揮毫「十酔楼(じゅっすいろう)」などがある。十酔楼とは、1、2泊の滞在の予定だったが皆で飲めや歌えやと楽しく過ごしている間に、十日間過ごしていたという意味である。
一階の広間は十五畳の和室が二部屋続きになっており、普段は襖障子で隔てられているが襖を取り外せば三十畳の大広間となる。 床の間横の地袋(じぶくろ)は、平面形状が三角形になっており、地袋の襖障子は和室の襖障子と同様の意匠で、桃色と銀色の市松模様である。これらの桃色と銀色の市松模様は、桂離宮の松琴亭(しょうきんてい)襖障子の写しである。
玄関の千歳楼という看板は、明治の三筆の一人である、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)によるものである。
庭のあずま屋は、現在は使っていないが昔は園遊会の時などに天ぷらをふるまったこともある。また、庭のお手植え松は落雷により焼けてしまい、現在は2代目である。
千歳楼(せんざいろう、養老町養老1079)は、養老公園内に建つ老舗旅館の一つである。その始まりは江戸時代後期にまで遡るともいわれ、時代と共に様々なお客様を受け入れてきた。
江戸時代の歌人で国学者の橘曙覧(たちばなのあけみ、現福井県福井市つくも出身)も千歳楼へ逗留していた記録があるらしく、福井から学芸員の方が調べにみえた。
木曽三川治水工事に多大な貢献をされた内務省技術官、ヨハネスデレーケも千歳楼を訪れていた。
また、養老公園には伊藤博文が何回か来ている。
日本画家の菅楯彦(すが たてひこ)氏も千歳楼に来られたことがある。
大垣レーヨンの起工式やイビデン創業の最初の総会は千歳楼で行われ、大垣や高田の芸子さんが大勢呼ばれた。その際はイビデンの初代社長であった立川勇次郎氏も千歳楼に来られていた。
日本画家の竹内栖鳳(たけうち せいほう)氏と吉岡氏のご祖父は一緒に浄瑠璃をしている絵もあるほど、懇意にしていた。
戦中は陸軍大将などが千歳楼に泊まられた。
1955年頃にアメリカの州知事をお迎えしたこともある。その時は事前に岐阜県庁からの指示で州知事がお泊りになる部屋に4.5畳ほどの浴槽、洗面所、シャワーを増築した。
水上勉氏や谷崎潤一郎氏も千歳楼に来られた。
昭和30年後半(1960頃)には常磐(ときわ)会などでも千歳楼を使っていただいた。
皇室の方々では、大正天皇が皇太子殿下の頃に一度、有栖川宮が一度、行啓されている。大正天皇みずからが植えられたと伝えられるお手植えの松が庭にあるが、初代は落雷により焼けてしまい、現在の松は2代目である。
明治時代以前の物は戦争で燃えてしまったが、大正時代以降の宿泊者名簿が残っている。
字籠山(こもりやま)は通称御嶽山(おんたけさん)ともいう。山頂に御嶽神社(おんたけじんじゃ)が鎮座されていた。御嶽講中の人々により創建され、常に参詣の人が絶える事がなかったと伝えられている。今は養老神社に合祀されている。
養老町養老公園の養老神社境内に御嶽(おんたけ)神社が合祀されている。御嶽神社の鳥居は、養老神社の鳥居とよく間違われる。
御嶽神社は御嶽講中の人々が建てた神社である。元は唐谷の南側にある喫茶樹里の北西のあたり、渋谷代衛の顕彰碑の上の所に建っていたものを、地滑りがあったためA氏が養老神社に移したと思われる。A氏は白石村にお世話をされて明治以降に名古屋から来られ、養老神社の初代の神職を務められた方である。養老神社のために招かれていたので他の神社へ行くことはなかった。
時期は不明だが御嶽神社は一度養老神社に合祀され、その後昭和37年(1962)の養老神社の境内拡張工事に伴なって現在の位置に移された。
養老町白石在住のB氏が子どもの頃の1940年代には、御嶽神社の元位置に石積みが残っていた。2012年現在でも社跡が少しは残っているのではないだろうか。
大正時代の古写真では、御嶽神社とその鳥居が養老神社の北側に写っている。また、養老神社の北側にあった頃の写真は絵葉書などにも残っている。