千歳楼(せんざいろう、養老町養老1079)は、養老公園内に建つ老舗旅館の一つである。
旅館の建物は少しづつ手を入れているが、各所に昔からの造作がそのまま残っている。
渡り廊下は昔は、下が板張り(スノコ)になっていた。廊下の下が谷になっており、板のすき間から谷水の流れが見えるようになっていた。初夏には蛍が見られた。谷川には昔水車がかけられていた。大正時代に千歳楼を増築するときに渡り廊下の壁に取り壊した水車の輪の部分を半分に切断したものを利用して明かり取りにした。渡り廊下から先は大正時代に増築した部分である。
本当は壁は、玄関の方まで全部弁柄色であったらしい。修理した時に本来の弁柄色はもう再現できないと言われた。弁柄風にしてもらうと、塗りたては元の色に近かったが、乾いてくると赤みがやや強くなった。
松の間は大正末期に松をモチーフに造られた。大正天皇が皇太子の時に宿泊されたお部屋である。昔はご寝所が一段高くなって、上段の間になっていた。昭和に入って現在の場所に部屋が移設された時に一段下げたのではないだろうか。松ぼっくりの釘隠しなど、全て松のデザインである。東側に面しているので、日の出が綺麗な部屋である。谷崎潤一郎さんと佐藤春夫さんは、松の間で一緒に過ごされた。千歳楼の部屋の中でお客さんに好まれる部屋は、袖の間、竹の間、楓の間などである。松の間は常連さんに人気がある。
竹の間は、昭和初期の造りである。竹をモチーフに網代天井、床柱などが竹である。床の間は床框(とこがまち)のない踏込床(ふみこみどこ)といわれる造りになっている。襖の竹の絵は、河合楽器の御曹司、河合五郎太氏が描いたものである。ここの部屋だけ昔から半帖畳である。わざと畳の半分を交互にし、半畳を商売繁盛とかけている。現在は、沖縄畳を使用している。
桜の間は、竹の間と同じ昭和初期に造られた。最後に増築された部屋である。桜の木々が庭園から眺められるので桜の間と命名された。壁は聚楽塗りである。縁側はガラス障子にガラス入りの欄間で、外光を取り入れる工夫がされている。
袖の間は千歳楼の先々代ご主人と親交があり、長期滞在することもあった日本画家の竹内栖鳳(1864~1942)がデザインしたと言われる部屋である。竹内栖鳳筆絹本絵画が飾られている。折上天井(おりあげてんじょう)で、天井高は約3.0mある。欄間、襖絵から鶴の形をした襖の取っ手に至るまで栖鳳の意匠が生かされている。
楓の間は現在では貴重品となった薩摩杉の化粧板貼りが天井に施されている。縁側の欄間にはたて格子に和紙を貼っており、通常の欄間より高い約45cmになっているため、和室全体に外光が取り込まれている。「翠声(かわせみのこえ)」(書者不詳)の書幅が掛けられている。
二階の大広間は昔から変わっていない。明治13年(1880)に作られた部屋なので130年の間そのままである。広間には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と三条実美(さんじょうさねとみ)の書幅、大垣藩家老職であった小原鉄心の揮毫「十酔楼(じゅっすいろう)」などがある。十酔楼とは、1、2泊の滞在の予定だったが皆で飲めや歌えやと楽しく過ごしている間に、十日間過ごしていたという意味である。
一階の広間は十五畳の和室が二部屋続きになっており、普段は襖障子で隔てられているが襖を取り外せば三十畳の大広間となる。 床の間横の地袋(じぶくろ)は、平面形状が三角形になっており、地袋の襖障子は和室の襖障子と同様の意匠で、桃色と銀色の市松模様である。これらの桃色と銀色の市松模様は、桂離宮の松琴亭(しょうきんてい)襖障子の写しである。
玄関の千歳楼という看板は、明治の三筆の一人である、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)によるものである。
庭のあずま屋は、現在は使っていないが昔は園遊会の時などに天ぷらをふるまったこともある。また、庭のお手植え松は落雷により焼けてしまい、現在は2代目である。

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表示位置は千歳楼の庭のあずま屋を示している。