鷲巣(わしのす)の生業は農業が多い。
昔は津屋川の堤防の西側もすべて田んぼであった。現在人が住んでいるような、土地が高くなっている所には田んぼはなかった。
字神屋田(かみやだ)全体と、白山神社の西も田んぼであった。
昔田んぼだった所が、今では畑や雑地になっていたり、休耕田になっている。
鷲巣の人で、津屋川の堤防の東に住んでいた人は、A氏の知っている限りはいない。昔から殆ど田んぼである。西側の住宅から田んぼへ行く道としては、津屋川を橋で渡って行ったあたりに新橋(字稗田(ひえだ))、津島街道の橋、灯明橋(字川並(かわなみ))、寺橋(字北組(きたぐみ))、クルマエ橋(漢字不明、地元の通称名)がある。白山神社の東にかかる橋は車が通らないので、これらの石橋で行き来していた。橋も全部新しくなったが、昔の橋は手すりもなく、石が並べてあるだけだった。
養老駅のすぐ東は、畑だった。
昭和10年代は、鷲巣の住民は農作業の取り入れの手伝いや、若い人は砂防工事に出かけた。学校の先生も多かった。

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鷲巣(わしのす)は地盤が高いので、伊勢湾台風や大雨の時は、ほとんど田んぼの被害を受けたのみであったが、2、3軒は水がついた。
専明寺(せんみょうじ)の本堂は大丈夫だったが、境内は低いので水がついた。大倉商店の荷物の入った倉庫にも水がついた。白山神社は、境内の中を水が流れた。鷲巣の堤防が被害を受けた。
昭和13(1938)年の集中豪雨の際は、山からの水が多く、東西の村道は砂利道に穴があき、流れてしまった。また、養老寺の上の滝谷が決壊し、鷲巣1476番地の周辺から津屋川まで水が流れた。
鷲巣1528番地のあたりの南は土砂でいっぱいになり、この辺りでは一番酷い状況であった。
鷲巣は地盤が強く、地震には強い。明治の濃尾震災は分からないが、終戦前後の地震の時、鷲巣では潰れた家は一軒もなく、被害らしい被害はなかった。上多度の小学校は、昭和19(1944)年の東南海地震で南北の校舎を繋ぐ渡り廊下がつぶれた。上多度小学校は西側は堤防まで運動場、東側は中庭だった。昭和20(1945)年か昭和21(1946)年の地震で南の校舎がつぶれ、専明寺など何か所かに分かれて勉強をした。

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鷲巣(わしのす)の湊は、二か所あった。鷲巣の燈明さんの東側と、その一つ北の寺橋の所である。
専明寺南側のA商店は、昔、船で桑名方面と商売をしていた。
津島街道より一本上の道、燈明橋の近くに個人の土場(どば)があった。田を掘り上げて、船が着けるようにしたものである。B氏が子どもの頃、昭和10年代の半ば、夏になると土場の船で遊んでいて叱れられた。
字絵図でみると、湊の場所は、寺橋の湊は字川並(かわなみ)、土場は字稗田(ひえだ)である。
船の行きの積荷は、芝や薪が多かった。鷲巣の商人C氏は、桑名から津屋川を上ってくる時は、津屋川の堤防の上からロープで船を引っぱって川を上がって来た。おそらく、山を持っている家だったので、芝などで商いをしていたのではないだろうか。帰りの積荷は、醤油、味噌など食料品を買ったと聞いている。近所で注文を聞いておいて、買ってきたのではないだろうか。今、そういったことを詳しく知っている人はいないと思う。帆掛船はあまり力にならなかった。また、津屋川で小さな蒸気船(ポンポン船)を見た。
津屋川から船が出て、ある程度広い所まで出ると帆を掛けて、風を受けて進んだ。帰りは、自力で川を上るのは難しく、大体子どもたちが川岸からロープを引いて上流の方へ引っ張って行った。
昭和19年前後、鵜飼の練習の為に、鵜飼船が旧上多度小学校の西のあたりから鷲巣まで、津屋川を上ってきた。その時も、なかなか上流に上っていかなかった。鵜匠が鵜を連れて、潜らせて鵜飼の訓練をやっていた。

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飯ノ木(はんのき)の源氏橋の西側に昔あった、船繋石(ふなつなぎいし)という大きな岩は、昭和30年代後半の耕地整理の時に何処かに移動された。
A氏が子供の時に聞いた話では、鎧掛(よろいかけ)の榎は飯ノ木の西側、逆葦(さかさよし)は飯ノ木の集落の南にあった。

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耕地整理前の鷲巣(わしのす)には、椿(つばき)、三反割(さんだんわり)、などという字名があった。昭和36(1961)年から昭和39(1964)年頃の耕地整理後は苗代(なわしろ)、石ノ割、八間屋などという字名になった。また、白山神社の東側にあたる土地で、北から一ノ割、二ノ割、三ノ割、四ノ割といった字名も耕地整理後にできた。鷲巣の白山神社東の堤防をはさんですぐの東西にはしる広い道路が、字一ノ割の境である。そこから南に二ノ割、三ノ割と続き、専明寺の前を通る寺町筋から堤防をはさんで東へ行く通りが字四ノ割の境である。字三ノ割は他の区画よりも狭い。
字割の決め方は、基本の1区画は45m×200mだが、長ければ、45mではなく90mほどの所もあった。また、幅も200mとは限らなかった。大字ごとの総面積が耕地整理前後で合うように字割をしていったため、土地の形に合わせて不規則な大きさになることはあった。
鷲巣の明治17年頃の字絵図を見ると、境界線が段々になっている。耕地整理をした後にもこの段々が解消されなかったのは、前述したように総面積を合わせるための調整地だったのかもしれない。
鷲巣区は一括して耕地整理後に現地換地(げんちかんち)をした。現地換地とは、一人の所有者が色々な場所に散らばって所有していた田んぼの面積を測り、総面積分の土地を一か所にまとめてその所有者に与えることである。換地は耕地整理が終わった後に行われ、1年目を仮換地として、地区全体を全所有者が総出で農作業をした。2年目に1年目の生産状況をみて土地の改良申請を行った。元が池や水路であった場所は沈下しやすく、この時点では誰がどこの土地にあたるかは知らされていなかった。改良費用は土地改良事業が負担した。そして3年目に、本換地として個々の所有地が定められた。これ以降は土地を改良することがあっても、費用は全て個人負担となり、後から相当苦労した人もいた。
京ヶ脇、白石、小倉の人で、鷲巣区に田んぼを持っていた人もいた。
A氏の場合は、以前所有していた田んぼの近くに換地された。

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