鷲巣(わしのす)の湊は、二か所あった。鷲巣の燈明さんの東側と、その一つ北の寺橋の所である。
専明寺南側のA商店は、昔、船で桑名方面と商売をしていた。
津島街道より一本上の道、燈明橋の近くに個人の土場(どば)があった。田を掘り上げて、船が着けるようにしたものである。B氏が子どもの頃、昭和10年代の半ば、夏になると土場の船で遊んでいて叱れられた。
字絵図でみると、湊の場所は、寺橋の湊は字川並(かわなみ)、土場は字稗田(ひえだ)である。
船の行きの積荷は、芝や薪が多かった。鷲巣の商人C氏は、桑名から津屋川を上ってくる時は、津屋川の堤防の上からロープで船を引っぱって川を上がって来た。おそらく、山を持っている家だったので、芝などで商いをしていたのではないだろうか。帰りの積荷は、醤油、味噌など食料品を買ったと聞いている。近所で注文を聞いておいて、買ってきたのではないだろうか。今、そういったことを詳しく知っている人はいないと思う。帆掛船はあまり力にならなかった。また、津屋川で小さな蒸気船(ポンポン船)を見た。
津屋川から船が出て、ある程度広い所まで出ると帆を掛けて、風を受けて進んだ。帰りは、自力で川を上るのは難しく、大体子どもたちが川岸からロープを引いて上流の方へ引っ張って行った。
昭和19年前後、鵜飼の練習の為に、鵜飼船が旧上多度小学校の西のあたりから鷲巣まで、津屋川を上ってきた。その時も、なかなか上流に上っていかなかった。鵜匠が鵜を連れて、潜らせて鵜飼の訓練をやっていた。

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津屋川は中世には鷲巣川といわれていた。(「養老町の古道(p.60)」参照) 岐阜の長良川の鵜飼いが冬の間鵜の訓練と魚の餌取りに養老町の中小河川に来た、という話は笠郷の大野、小畑の祖父江でも聞かれた。表示位置は鷲巣湊跡を示している。