耕地整理前の鷲巣(わしのす)には、椿(つばき)、三反割(さんだんわり)、などという字名があった。昭和36(1961)年から昭和39(1964)年頃の耕地整理後は苗代(なわしろ)、石ノ割、八間屋などという字名になった。また、白山神社の東側にあたる土地で、北から一ノ割、二ノ割、三ノ割、四ノ割といった字名も耕地整理後にできた。鷲巣の白山神社東の堤防をはさんですぐの東西にはしる広い道路が、字一ノ割の境である。そこから南に二ノ割、三ノ割と続き、専明寺の前を通る寺町筋から堤防をはさんで東へ行く通りが字四ノ割の境である。字三ノ割は他の区画よりも狭い。
字割の決め方は、基本の1区画は45m×200mだが、長ければ、45mではなく90mほどの所もあった。また、幅も200mとは限らなかった。大字ごとの総面積が耕地整理前後で合うように字割をしていったため、土地の形に合わせて不規則な大きさになることはあった。
鷲巣の明治17年頃の字絵図を見ると、境界線が段々になっている。耕地整理をした後にもこの段々が解消されなかったのは、前述したように総面積を合わせるための調整地だったのかもしれない。
鷲巣区は一括して耕地整理後に現地換地(げんちかんち)をした。現地換地とは、一人の所有者が色々な場所に散らばって所有していた田んぼの面積を測り、総面積分の土地を一か所にまとめてその所有者に与えることである。換地は耕地整理が終わった後に行われ、1年目を仮換地として、地区全体を全所有者が総出で農作業をした。2年目に1年目の生産状況をみて土地の改良申請を行った。元が池や水路であった場所は沈下しやすく、この時点では誰がどこの土地にあたるかは知らされていなかった。改良費用は土地改良事業が負担した。そして3年目に、本換地として個々の所有地が定められた。これ以降は土地を改良することがあっても、費用は全て個人負担となり、後から相当苦労した人もいた。
京ヶ脇、白石、小倉の人で、鷲巣区に田んぼを持っていた人もいた。
A氏の場合は、以前所有していた田んぼの近くに換地された。
鷲巣地区は、上多度東部土地改良区にあたる。地区面積は143ha、設立月日は昭和45(1970)年、10月23日である。表示位置は鷲巣地内の田んぼを示している。