象鼻山の東側の山裾に、九十九坊の一つであった念長寺の竹藪が現在も残っている。
橋爪の念長寺、垂井町表佐村(おさむら)の宝光(ほうこう)寺、上石津町一之瀬の天喜(てんき)寺は、九十九坊の出といわれており、養老郡志にも記述されている。また、飯積の光敬(こうきょう)寺も九十九坊の出とある。

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養老町の象鼻山周辺には万仁寺と清水寺(せいすいじ)の二つの寺があった。昭和47年頃(1972)に始まった土地改良工事の際、県道227号線と象鼻山山麓東側の道との三叉路の交差点付近から万仁寺の礎石が出てきた。礎石は四角くきちんと並んでいたそうである。そのうち良いものを家の土台に使用したという人がいた。礎石の写真は残っていない。万仁寺に関しては、元禄古文書にその名が見られるが、読み方は分からない。橋爪在住のA氏は「まんにんじ」と呼んでいるが、「ばんじんじ」と呼んだかもしれない。一方清水寺は、いまだに「せいすいじ」の呼称が残っているので、昔から呼び方は変わっていないと思われる。
別所の万仁寺と清水寺の寺内で騒乱が起こった時に、越前大野の殿様であった黒田次郎真与(くろだじろうまさよし)が鎌倉二代将軍頼家により派遣された。騒乱を鎮圧した後、黒田家が橋爪の守護となり当地に残った。初代真与から数えて9代目の時に姓を久保寺と改め、その後再び明治期に久保田と改姓したと言い伝えられる。
元禄古文書によれば天台宗象鼻山万仁寺に地蔵堂があり、地蔵本尊は木之本に遷されたがこれは元は別所にあったものであると記載されている。しかしこれを証明することはできない。また天然記念物になっている揖斐郡大野町の野村モミジは別所から江戸中頃に万仁寺の地蔵堂の側にあったモミジを移植したものである。

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養老町の別庄(べっしょう)は、かつては別所(べっしょ)と言った。言葉に応じて字を当てはめるので漢字も「所」から「庄」に変わった。別庄という地名は通称で、実際の地名は地図には字天待(てんまち)字岡山と書かれている。
別庄には、別所寺(べっしょじ)があり古い歴史を持つ地域である。関ケ原合戦の合戦図に「橋子別所」と書かれている。
竹中半兵衛が隠棲した場所についても栗原山ではなく、生活の便や隠れ住む場所としても別所山(べっしょやま)が適所だと考えている。
象鼻山もかつては別所山(べっしょやま)と呼んでいた。
別庄には以前まで表佐村(おさむら)の宝光(ほうこう)寺の道場があったが、現在その跡地は地区集会所となった。

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明徳4年(1393)に足利義満(あしかがよしみつ)が養老観瀑に訪れた際、津屋川(つやがわ)を船で上り、明徳(みょうとく)の湊から上陸し養老の滝を訪れた。義満が上陸した最寄りの神社が養老町明徳の船着神社(ふなちゃくじんじゃ)であるといわれている。船着神社の由緒書きによれば明徳の地名は義満が明徳4年(1393)に訪れたため名づけられた。
養老の滝を訪れた際に義満は多岐神社への参詣を勧められた。多岐神社の由緒書きには義満が多岐神社を参詣した折に350貫文の社領を寄進したことが記されている。
戦時中から義満は朝廷に対する賊軍の大将のように言われており公言しづらい風潮があったが、近年、足利義満が多岐神社を訪れていることは養老町の歴史上とても重要なことではないかと考えなおされている。

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橋爪のA氏は太平洋戦争を始め、フィリピン、朝鮮、中国南京などの外地にも出征された体験を持つ。
始めは陸軍自動車隊に入ったが、その後航空隊に転科し戦闘機にも乗った。伊勢湾の上空でエンジンが停止し、墜落しそうになったが落ちて行く時の風圧でエンジンが回り始めて助かったことがある。
昭和20年(1945)の2月頃、名古屋空襲の防空に出た時のことである。B29が8機襲来し、先頭をA氏が担当していたので狙われた。通常階級の高い兵士が先頭を飛び、階級が低く操縦の下手な者は最後尾の戦闘機に乗っていたためである。B29は10丁以上の機関銃を装備しており、1秒間に八千発発射するので、目をつぶって飛び込んだ。日本軍の三式戦闘機・飛燕(ひえん)は川崎重工の岐阜工場で製造された戦闘機で、油圧で作動していた。飛燕は秒速170メートル、B29は秒速130メートルであった。発見が遅れると撃墜されてしまうため、いち早く敵を発見しなければならなかった。敵機の下を潜って逃げた。前の風防ガラスが曇ってきて怖かった。自動車は、前後左右だけ見れば良いが、飛行機は上下も見なければならない。敵機からの襲撃により機体から燃料が一面に流出し、もう終りだと思った。エンジンが停止して墜落し始めたため、亀山の飛行場(鈴鹿飛行場)へ向かおうとしたが、急降下しないと失速する。周辺は森や林ばかりで、着陸する所が何処にもなく諦めかけたが、墜落寸前に翼端が立ち木に引っ掛かってクルックルッと回転して助かった。A氏を発見した鈴鹿の海軍の兵隊に名前を聞かれたが、その時はショックで自分の名前が出てこなかった。全身打撲で鈴鹿陸軍病院に入院したが、1か月で退院できた。しかし、一緒に突撃した仲間は全員亡くなってしまった。特攻隊の写真に生きている自分も載っていた。同じ部屋にいた12人のうち、8人が戦死した。

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