橋爪のA氏は太平洋戦争を始め、フィリピン、朝鮮、中国南京などの外地にも出征された体験を持つ。
始めは陸軍自動車隊に入ったが、その後航空隊に転科し戦闘機にも乗った。伊勢湾の上空でエンジンが停止し、墜落しそうになったが落ちて行く時の風圧でエンジンが回り始めて助かったことがある。
昭和20年(1945)の2月頃、名古屋空襲の防空に出た時のことである。B29が8機襲来し、先頭をA氏が担当していたので狙われた。通常階級の高い兵士が先頭を飛び、階級が低く操縦の下手な者は最後尾の戦闘機に乗っていたためである。B29は10丁以上の機関銃を装備しており、1秒間に八千発発射するので、目をつぶって飛び込んだ。日本軍の三式戦闘機・飛燕(ひえん)は川崎重工の岐阜工場で製造された戦闘機で、油圧で作動していた。飛燕は秒速170メートル、B29は秒速130メートルであった。発見が遅れると撃墜されてしまうため、いち早く敵を発見しなければならなかった。敵機の下を潜って逃げた。前の風防ガラスが曇ってきて怖かった。自動車は、前後左右だけ見れば良いが、飛行機は上下も見なければならない。敵機からの襲撃により機体から燃料が一面に流出し、もう終りだと思った。エンジンが停止して墜落し始めたため、亀山の飛行場(鈴鹿飛行場)へ向かおうとしたが、急降下しないと失速する。周辺は森や林ばかりで、着陸する所が何処にもなく諦めかけたが、墜落寸前に翼端が立ち木に引っ掛かってクルックルッと回転して助かった。A氏を発見した鈴鹿の海軍の兵隊に名前を聞かれたが、その時はショックで自分の名前が出てこなかった。全身打撲で鈴鹿陸軍病院に入院したが、1か月で退院できた。しかし、一緒に突撃した仲間は全員亡くなってしまった。特攻隊の写真に生きている自分も載っていた。同じ部屋にいた12人のうち、8人が戦死した。
表示位置は鈴鹿陸軍病院跡を示している。