多岐神社は養老町一円と大垣市を一部含む村落内の55社の宗社であり、毎年4月の例祭には付近の神社総代が招待される。A氏も昔、篠塚神社総代を務めていたので招待されたことがある。多岐地区の御夫人方が立派な料理を振る舞い、折箱や土産まであった。神饌料として橋爪の神社費から5千円納めた。この祭の際、多岐神社のご祭神は日吉地区の中にある諏訪神社に御旅される。諏訪神社の御旅所の歴史は、神官さんに聞いてみなければ分からない。神様が御旅をされる理由ははっきりと分からないが、A氏は男神と女神の逢瀬ではないかと思っている。多岐神社は女性の神様、諏訪神社は男性の神様である。
多岐神社を「ダイボ(大菩薩)さん」と呼んでいて、直江・祖父江・金屋から大勢の人がお参りに来た。食肉業者の方は多岐神社に牛の供養に行き、毎月お寺にもお参りされ、お墓もきれいに掃除されている。
多岐神社には戦死された方を祀っている。
宮の森公園の跡地も多岐神社の土地だった。そこは旧多岐墳村で30軒ほど家があった。
多岐神社には、神仏習合の時に仏と御堂が移された。今もって御堂が神社と一緒になっているのは養老町内でも珍しい。仏と御堂についての詳細は未調査である。
昭和30年代に高山神社、三野神社、御鍬神社2社、八幡神社、カワマタ(サンズイに爪)稲荷、神明神社、藤代神社、素盞鳴神社を合祀して現在の状態になった。社務所に使われた建物はそれまで大垣の多芸島村の庄屋の家屋を、地車・牛車・馬車を使って村中総出で移築して社務所にした。社務所にした建物のあった正確な場所は不明である。
多芸島村は多岐神社の畑のような所だったが、農地解放で個人に渡った後、買うかもらうかしてまた返してもらった。
本殿は明治23年、社務所は昭和39年、渡り廊下は昭和42年に整備された。幣殿は当初無かった。
多岐神社では浄蓮寺や教正寺の住職が来て法要を勤める。昔は春秋2回だったが、今は秋の1回のみとなった。
昔は多岐神社から北の方は何も無かった。
多岐神社の後ろに如法経塚があるが、600-700年ほど前にできた。多岐神社の土地は1600坪以上である。如法経塚は神仏習合のため多岐神社に経典を埋めたものである。経典の一部が現在宝物庫にある。昔経塚の発掘の話も出たが、祟りを恐れて取りやめになった。
豪族物部坂麿の墓が近所にあり、この物部坂麿が多岐神社を創建したと聞いたことがあるが正確な墓の位置は不明である。
多岐神社の本殿と経塚は昔からこの地にある。他の社は遷座されてきた。
高畑村には村の氏神として八幡神社があったが2010年現在は多岐神社に合祀されている。食肉センターの西側に祠があり、八幡神社跡地としてある。
神明神社も元は高畑村にあった。
多岐神社では1月1日に歳旦祭、1月の第3日曜日に左義長、4月の第2日曜日に例祭、11月23日に新嘗祭などが行われる。
4月の例祭では、餅まきが行われ、裃、菅笠、雪駄で行列をした。衣装は社務所で保存しているはずである。
多岐神社の御旅は神官と太鼓2~3人で歩いていたが、現在はバスで移動する。中の住民2~3人が元の自治会館あたりで出迎えをする。なぜ中の諏訪神社が多岐神社の御旅所なのかは不明である。
多岐神社の御旅所の場所は昔から変わっていない。
神事の資料として「多岐神社年表」「祭典・行事録」、多岐神社のお供えリスト、神幸序列の図、多芸村と南直江との境の地図の写真、昭和40年代の地図の写真がある。

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表示位置は多岐神社を示している。