昭和30年代は、高田では昔の女郎遊びはなくなった。
大垣の水門川の横で、女性が屋台を出しており、A氏はそこへよく行った。養老には屋台はなかったが、高田に一杯飲み屋があった。
養老公園周辺では、一杯飲み屋はなかったが、旅館での宴会はよくやっていた。
高田には高田芸者がいたように、池野芸者、墨俣芸者、大垣芸者など地域ごとに芸者がおり、それぞれに特徴があった。例えば高田芸者は活発だが池野芸者はおとなしい、など。昔の芸者遊びでは時間の区切りを線香で計っていたが、「今日は2本(約2時間)で」というと、「もう1本(約1時間)いきましょう」というのは墨俣芸者で、非常にしっかりしていた。
高田には芸者の置屋さんがあり、何十人と芸者さんがいた。また、今に比べると一杯飲む機会が多かった。
養老町外の人が養老町に仕事に来たときや、目上の人を迎える時は、お答拝(おたっぱい)をする習わしであった。お答拝の用意をできる人が力のある人と考えられた。
岩道と西岩道は、水をめぐって争いがあった。上下関係により、岩道で水が必要な時は西岩道に頭を下げて頼んでいた。しかし夜中に、水を切りに行って(あぜを壊して)、自分たちの側に水を落とした人がいた。そこを見つかり、喧嘩になったこともある。また、岩道地内でも水の争いはあった。
争いを避けるために、部落同士、区長同士で話し合って水に関する取り決めをした。どこの家は何日から、と決めて水を分かち合った。村ではそれを受けて水がもらえる日に合わせて田植えの日にちを決めた。
現在は、農業をしている人が少なくなり、笠郷営農センターに田んぼを預ける人がほとんどで、争いごとはない。
広幡地区の、岩道と西岩道は、岩道が本村で、そのあとに西岩道ができた。
岩道の地名の由来は、分からない。