岩道と西岩道は、水をめぐって争いがあった。上下関係により、岩道で水が必要な時は西岩道に頭を下げて頼んでいた。しかし夜中に、水を切りに行って(あぜを壊して)、自分たちの側に水を落とした人がいた。そこを見つかり、喧嘩になったこともある。また、岩道地内でも水の争いはあった。
争いを避けるために、部落同士、区長同士で話し合って水に関する取り決めをした。どこの家は何日から、と決めて水を分かち合った。村ではそれを受けて水がもらえる日に合わせて田植えの日にちを決めた。
現在は、農業をしている人が少なくなり、笠郷営農センターに田んぼを預ける人がほとんどで、争いごとはない。
広幡地区の、岩道と西岩道は、岩道が本村で、そのあとに西岩道ができた。
岩道の地名の由来は、分からない。
広幡は各地区に昔から大地主がいた。大跡の戸倉氏、口ヶ島の田中氏とその分家、西岩道の西脇氏などである。岩道の久保田家は中間地主であり、流れは田中耕馬氏からきていて、田中家の田んぼを預っていたこともあった。しかし、農地改革によって、大地主は大打撃を受けた。久保田家のような中間地主の場合は、田んぼも大部分は取られたが、自給自足できる程度の田んぼは残った。一方土地を借りていた小作人は、非常に安価で土地を購入できた。
やがて、機戒が入れるように道幅が広がった。田んぼの売買が進み、昔は小作人だった人が潤うようになり、大地主と呼ばれた家が没落する逆転現象もみられた。