広幡は各地区に昔から大地主がいた。大跡の戸倉氏、口ヶ島の田中氏とその分家、西岩道の西脇氏などである。岩道の久保田家は中間地主であり、流れは田中耕馬氏からきていて、田中家の田んぼを預っていたこともあった。しかし、農地改革によって、大地主は大打撃を受けた。久保田家のような中間地主の場合は、田んぼも大部分は取られたが、自給自足できる程度の田んぼは残った。一方土地を借りていた小作人は、非常に安価で土地を購入できた。
やがて、機戒が入れるように道幅が広がった。田んぼの売買が進み、昔は小作人だった人が潤うようになり、大地主と呼ばれた家が没落する逆転現象もみられた。
戦後の農地改革では江戸時代から続く庄屋や地主は多くが没落したが、その中でも子弟に教育をしていた家は、その後公務員や教員になり、生活の糧を得ることができた。表示位置は田中耕馬氏宅跡を示している。