A氏は、昭和29年(1954)に「ひらけゆく郷土」という本を作った。社会科の副読本として、各学校へ15冊位ずつ配った。当時まだ養老町の図書館はなかったので町の図書館には置いていない。
その時の写真は、自分で撮影に行き、現像もすべて自分でやった。
原板は残っているか分からないが、35ミリ、ブローニーで撮り、またスライドにもした。
高田には撮るべきものがあまりなかった。
上石津町(大垣市)には、天喜寺の正式な書院作りの建物、高木家の鎧、薩摩義士の日記などを撮影しに行ったり、「シブナシガヤ」の有る上石津町下山唯願寺(ゆいがんじ)に行った。また、その頃の山々にはまだ炭焼小屋や藁ぶきの家があった。
養老町で覚えているのは、九里半街道が通る金草川の堤防の横や、牧田川と金草川が分流するあたりの広幡地区に「九里半街道」と書かれた標柱があったことである。金草川堤防の標柱は石製で、現存するが傾いてしまっている。分流のあたりの方は木製で、現在は既に無くなっている。
町役場の西にある道標は、元々は養老街道の本筋である高田商店街にあったのではないだろうか。前はこの付近に養老初の警察署もあった。
「ひらけゆく郷土」作成時の多くの資料は現在名古屋大学に行っている。
戦後の教育は、国からの一方的な情報だけで行っていた。しかしやがて、色々な情報を得てそれを自分で取捨選択し、一方的な教科書を教えるだけではない教育をしなければならないと考えた。その結果、放送教育を始めることになった。
その後、組合の委員長を専従で2年勤めた。
その頃日教組は、「教え子を二度と戦場に送るな」がスローガンであった。
終戦直後は大変な時代であった。「日教組がかかげていた旗印は何だったのか」と叩かれ、勤評(勤務評定)問題が出てきて、県庁では武藤嘉門(むとうかもん)氏が県知事で日教組を目の敵にして弾圧をしてきた時代であった。
A氏は戦前に教員をしていた。出兵し、戦争が終わって帰って来たのは終戦の翌年、昭和21年(1946)である。復員後、教員に復職する気が起きず、半年間は学校へ行かなかった。
帰ってきた時、人間はこんなに変わるものかと思った。行く時は手を振って万歳三唱だったが、帰ってくると、余分な奴が帰ってきたと思われているように感じていた。
学校から、出てくるように何度か言われていたが、自分の心の整理が付くまでは断っていた。そのうち、担任をしていた先生が病気で休職し、行かざるをえなくなって、結局は高田小学校に復職した。
いざ復職となると、どうやって子どもに立ち向かおうかと考えた。そして、どんな時代にも変らないものがあるだろうと思い至った。正邪善悪、信義である。戦争があろうとなかろうと、時代がどう変ろうと、人間として生きる道・やるべきこと・守るべきことがある、これだけは失わないように子どもに立ち向かおうと思い、A氏は教職に戻った。
広幡地区岩道在住のA氏によると、終戦後の田んぼをやっていた頃は、田植えが済んだ農上がり後は、農休みの決まりを作り、一杯飲みに行ったり、映画を観に行ったりした。
昭和24年(1949)に、高田小学校で放送教育の研究大会をやることになった。
都会である岐阜市や大垣市は、空襲にあい、校内放送ができる学校がなかった。そのため立派な機械はなかったが、高田小学校に声がかかったのである。A氏は、大会の責任者であったので、大変苦労した。全国から人が集まり、文部省、GHQからも来た。遠くは鹿児島など、全国から700人ほど来たので、泊まるところが無く、養老公園や大垣で宿舎を探した。
冊子作りなどで、一か月間、睡眠時間が2時間位だった。当時は、参考にするものがなかったので、機械のことは、早崎ラジオ(城前町)のおじいさんと一緒に行った。
文部省から本を作る時に高田小学校が全国のモデル校になったことが掲載された。