戦後の教育は、国からの一方的な情報だけで行っていた。しかしやがて、色々な情報を得てそれを自分で取捨選択し、一方的な教科書を教えるだけではない教育をしなければならないと考えた。その結果、放送教育を始めることになった。
その後、組合の委員長を専従で2年勤めた。
その頃日教組は、「教え子を二度と戦場に送るな」がスローガンであった。
終戦直後は大変な時代であった。「日教組がかかげていた旗印は何だったのか」と叩かれ、勤評(勤務評定)問題が出てきて、県庁では武藤嘉門(むとうかもん)氏が県知事で日教組を目の敵にして弾圧をしてきた時代であった。
専従とは、組合活動だけをしていた教職員である。表示位置は高田中学校を示している。