昭和24年(1949)に、高田小学校で放送教育の研究大会をやることになった。
都会である岐阜市や大垣市は、空襲にあい、校内放送ができる学校がなかった。そのため立派な機械はなかったが、高田小学校に声がかかったのである。A氏は、大会の責任者であったので、大変苦労した。全国から人が集まり、文部省、GHQからも来た。遠くは鹿児島など、全国から700人ほど来たので、泊まるところが無く、養老公園や大垣で宿舎を探した。
冊子作りなどで、一か月間、睡眠時間が2時間位だった。当時は、参考にするものがなかったので、機械のことは、早崎ラジオ(城前町)のおじいさんと一緒に行った。
文部省から本を作る時に高田小学校が全国のモデル校になったことが掲載された。
早崎ラジオは、高田町城前町で日本コロンビア特約店であった。表示位置は高田小学校を示している。